きっちりしつづける

たしか小学校低学年のころ、わたしはときどきてるてる坊主をつくり、晴れてくれと願かけをした。
それが叶ったあるとき、感謝するつもりだったのか、わたしはてるてる坊主に紙でつくった服を着せた。そしてそのまま、壁掛けのポケットに飾るかのように、収めた。
その後も何度かてるてる坊主に願掛けし、晴れたり晴れなかったりして、ワンピースだけだった服にエプロンがつき、そこに装飾が施され、王冠のようなものがつき、さらに家族も3人ふえた。てるてる坊主はとても簡単には捨てられないようなものに思えてきて、飾りを増やしてあげたりしないと、悪いことが起こるんじゃないか、てるてる坊主にたたられるんじゃないかと、ちょっと恐れるくらいになっていった。
ということは覚えているのだが、今そのてるてる坊主は残っていない。

そのころのことだったか、わたしは今よりもずっときっちり字を書いていた。トメ・ハネは正確に、省略したり線を続けたりすることもないように。できあがった紙面を見て、その出来を確かめていた。
しかし、あるとき、わたしはきっちり書くのをやめようと思った。
きっちり書こうとするせいで、できなかったときのモヤモヤが生まれる。字を書くことだけではない。ものをそのまま大事にとっておく、毎朝全く同じ朝食をとる、時間通りに生活する、こういうことを全部きっちりやろうとしても、周りの状況が許さなかったり、自分の能力が足りなかったり、できなくなることはよくあって、そのたびにわたしは、罪悪感なのか、不安なのか、なんとなくモヤモヤしたものがわいてくるのを感じたが、それはきっと、きっちりやろうとするからなのだ。だから、きっちりしないようにすれば、もっと楽になるんじゃないか。それに、マイルール縛りがとけて、やれることも増えるんじゃないか。そう思ったような気がする。てるてる坊主も、そのとき捨てられたのかもしれない。

そして、きっちりしないようにしよう、とやっていくようになって、年月は過ぎ、意識しなくてもきっちりできなくなってきて、今では自分の字が判読できないことも多々ある。やってない不安におそわれることは減り、縛りがとけることでできたこともたくさんある。そんな中で数年前、アルス・ノヴァで日々過ごすようになり、きっちりしていたときの感覚を思い出す場面がいくつかあった。
それは主に、アルス・ノヴァの利用者であるりょうがさんの日々の活動を見ているときだったのだが、りょうがさんの一日は日課というか、儀式で構成されているのではないかというくらい、どの場面においてもなんらかのきまりに基づいて動いているように見える。
朝の送迎中、決まったポイントで必ず外の何かを見つめる。毎日同じ言葉を同じレイアウトで紙に書く。せんべいは両手で持って口から一瞬も離さず食べる。帰る前には、いすを全てテーブルの下に入れる。などなど。生活のあらゆる場面にこのような「儀式」がある。
そしてこれらができなくなる状況も度々あり、そのたびにりょうがさんはイライラしたような顔をするのだが、その感覚はなんとなく、きっちりしていたわたしの罪悪感とか不安とかモヤモヤと、近いのではないかと思った。

今ではりょうがさんに、状況が許さず「儀式」をほどほどのところでやめてもらおうとあの手この手を使ったりすることもあるのだが、一心不乱に紙に字を書き続ける様子を見てうらやましくなったこともある。
そして隣で、目についた文字をひたすらチラシにボールペンで書き続けたのだが、りょうがさんほどの集中力というか、何より熱量がわたしにはなかった。

あのとききっちりしないようにしよう、と決めなかったら、わたしはどうなっていたのだろう。
というか、きっちりしつづけることはできたのだろうか。

佐々木知里

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