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浜松まつり ―連尺町より愛を込めて―

浜松の市街地は、もともと職人の町がひしめきあって出来ている。こっちの角から鍛治町、向かいの通りは紺屋町と、隣り合っている敷地であっても、所属している町内は異なっていたりする。かつてはそんな町の広場ごとに凧を揚げていたのを、やがてひとつの会場で合流しようということになって、凧を運ぶ台車が御殿屋台になって、興奮冷めやらぬ想いを夜の練りにぶつける、という今のカタチに至る(詳しくはウェブで検索ください)。

浜松に来たばかりのころ、やはり驚かされたのは風である。横浜で生まれ育ったわたしにとって、海は埋め立てられ人工物を浮かべるためのものだった。浜松の海はむき出しの遠州灘である。そこからやってくる”遠州のからっ風”は、海の見えない街中にいても、等しくひとびとの間を吹く。凧揚げが盛んになるのも頷ける。

たけし文化センターは連尺町にある。祭り会期のGW中はアルス・ノヴァがお休みということもあって、これまで参加は叶わなかった。今年は連尺町の顔役の皆さんに、法被を貸していただけることになったのだ。

浜松まつりに”参加する”には、まず自分が出る町の「法被」が無くては話にならない。これは町ごとに趣きが違う。連尺町は渋い灰色の地に、連の字と藤の絵がモチーフの凧印(町の紋みたいなもの)が刷られている。ベテランの皆さんは、さらにオーダーメイドの股引や足袋を合わせてコーディネートしていた。粋である。

それから「ワッペン」を購入し、法被に縫い付ける。これは毎年「浜松まつり組織委員会」が発行している公式な参加証であって、これが無くては凧場にも入れず、トラブルに遭いかねない代物だという。それだけ大規模な祭りなのである。

さて、祭りの正装に身を包んだ朝、まずは凧場へ移動する。なるほど凧を揚げるには、中田島砂丘はもってこいだ。ひしめき合う陣屋(テントの下に酒や軽食を整えた、つまり前線基地である)を見渡し、連尺町のそれを見つけると、みなさんは既に缶ビールを開けて備えていた。町内で主体となって動いてくれる青年会の皆さんは、早朝から凧を運びこんできたのである。

連尺の凧は赤かった。「今年は還暦のひとがいるからねえ」と笑う歴々。浜松まつりの趣旨はもともと初子(はつご)、つまりその家で最初に生まれた子供の”誕生を祝う”ものである。しかし今時、初子がいない町内は珍しくなく、連尺町もその例に漏れない。漏れないどころか、連尺町は住宅が非常に少なく、町自体も小さいので、初子がいたのはもうずいぶん昔のことだという。それで今年は赤い凧にして、還暦をお祝いしようということである。

凧は最初から、凧本体と糸枠(糸を巻き付けておく土台)を離してスタンバイする。いい塩梅の位置でひとりが糸を持ち、合図とともに駆け出し、糸をひく。凧の動きに合わせて糸枠もガラガラと移動する。こんなに大きなものがどうやって揚がるのだろうと思っていた。きっと連尺町のみなさんの腕もあるのだろう、凧は思いがけずふわりと舞った。町内の副組長の息子さんが、たくましく糸を引く。手捌きを見るに、幼いころからずっと参加しているのだろうな。いまは県外に住んでおられて、祭りのために帰省しているのだという。浜松びとにとって、里帰りはお正月でなく五月が本番なのかもしれない。

糸切り合戦は面白かった。これだけ凧が揚がっていれば当然絡み合う他所の町内の凧糸に、自分のところの凧糸をギシギシと擦り付けて切るのである。綱のように太い凧糸を、町内の参加者たちでそれこそ綱引きのように引く。空と繋がっている糸の手ごたえは見た目以上に重く、風の力を思い知る。「ガラ!」と言われたらぱっと手を離す。合図があったらまた引く。なにせ丈夫な糸なので、よいところで区切りをつけ、お互いに挨拶をして終える。「本当に切れるまでやると日が暮れれちゃうからねえ」。町同士の喧嘩に発展することもあるらしいが、連尺町はもちろん、この日合戦したみなさんはとても穏やかに解散した。

午後三時には凧場を引き上げる旨のアナウンスが流れる。暗くなったら、次は街中で御殿屋台の引き回しや練りが始まるのだ。連尺町には御殿屋台が無い(お察しください。わが町は凧に全力を注ぐのだ!)ので、提灯を持って、町をささやかに練りまわる。旗持ちとラッパ隊の先導のもと、五社神社、カフェpaserettei、移転を控えた五月人形の店「寿月すみたや」、おとなりの紺屋町など、日頃お付き合いのある人びとを訪れて、軒先で万歳三唱をし、「よいしょォ!やいそォ!」と声をかけながら提灯を掲げておしくらまんじゅう(?)をする。これは祝福をしているのである。祝われたお店のほうは、そのまま軒先で食べ物や飲み物を振舞う。しばし談笑し過ごしたら次の場所へ……。もとは初子の家でこれらを行っていたのだろうが、今や何もなくても「ばんざーい!」と言って祝えばいいのである。この一連の行為が「練り」である。

今年はたけし文化センターの前にも「練り」が来てくれた。ULTRAヘルパーと一緒に3階で過ごしていた壮さんと燎さん、休日のアルスメンバー健吾さんも駆けつけ、お祝いに来てくれた連尺町のみなさんを迎え撃つ。万歳三唱のあと、子供たちが建物の中でちょっと遊んでいってくれた。トランポリンや楽器や不思議なおもちゃに「ウワーッ!」と目を輝かせて飛びつく。帰るとき、全員がちゃんと「ありがとうございました!」とお礼を言ってくれたことにびっくりした。参加していたお母さんのひとりにそう言うと、「祭りで大人が教えてくれるからかな。」ちゃんとお礼を言いなさいとか、はしゃぎ過ぎてうるさくすると迷惑だぞとか、親以外の大人が叱ってくれるから、いつのまにか身についていくのだ、という。なるほど、祭りは学びの場でもあるのだった。壮さんは町内の他の練りにも加わったが、大興奮で走り回り、お茶碗を失くしてしまったらしい。あまり見たことのないはしゃぎようだった。最後は町内の会所に戻って、やっぱり酒や肴を飲み食いして終了。凧から始まって練りで終えるこの一連の流れが三日三晩続く。

参加しているのは、今もその町に暮らしている人ばかりではない。法被とワッペンさえ用意できれば、どこの町で出てもよい。連尺町の人々も、いろんな由縁で参加していた。昔実家があったとか、親しい友人が出ているからとか、身内の出身地だからとか、なんか居心地がいいからとか。集った人びとはお互いに、久しぶり!最近どうしてる?と声をかけあっている。「同窓会みたいなもんだよねぇ」と参加者のひとりは言う。「浜松まつりの時くらいしか会わないから、ここで生存確認して、また来年!ってそれぞれの場所に帰っていくんだよ。」そんな人びとの子供たちもまた、当たり前のように参加して、ラッパを吹いて先導する。彼らが大人になったとき、どこにいても、きっと浜松まつりは欠くことのできない心の風景となるのだろう。

地域で生きるのは、しがらみにとらわれることだと思っていた。家から離れた学校に通い、知らない土地を知らないまま転々とし、職場と家の往復に努めて日々を過ごしてきた。浜松の街中に住んでみれば、浜松まつりは避けようがない。五月が近づくにつれあちこちで響くラッパの音色、すれ違う法被姿、御殿屋台により足止めされる道路。本番当日はいわずもがな、夜までパッパラドンドンと騒がしい。どうせ家にいても賑やかなら、その渦中に参加してしまったほうがよっぽど面白い。移住したての一昨年の祭りのころ、わたしはたけし文化センターの三階でヘルパーをしていた。練りのラッパが近づくたびに頭をかきむしって、ろくに食事や睡眠ができない壮さんを見、はやく通過してくれないかなァと願った。今年参加した結果がこれである。わたしは初日だけ顔を出すつもりが、夕刻に響くラッパの音に居てもたってもいられなくなり、そそくさと用事を済ませて帯を締め、気が付いたら三日間練っていた。まったく祭りは参加してなんぼである。

浜松まつりの歴史は四五〇年にもおよぶという。これだけの熱量で続けられているのは、これが神仏を奉るものでなく、あくまで「町民のための祝祭」だからだろう。初子を祝うのみであったころ、出産した家のほうは、名前入りの凧を作って大量の樽酒やら食事やらを手配して時間と場所を整えて、と祝われる側なのにたいへんな苦労が強いられていたと聞く。時代とともにゆるやかに変化して、いまではずいぶんマイルドになっているようだ(もちろん、町によって異なります)。初子を祝おう。還暦を祝おう。開店を祝おう。閉店を祝おう。健康であることを祝おう。今年もお祝いできることを祝おう。町民たちが主役となって、三日間を祝って過ごす。わたしは今、自分の住む地域にこういう風習があることをとても嬉しく思う。

そういう感想が持てたのは、今回参加できたのが連尺町であったことも大きい。少人数故なのか、町内会の人びとの人柄なのか、新参者のたけし文化センターの我々はもとより、県外からの初参加者も旧知の友のように迎え入れ、祭りのこともたくさん教えてくださった。先に述べたように、連尺町に住んでいるひとばかりではないので、次に会えるのは一年後なのだと思うと寂しさすら覚えた。でも、祭りがあるから、再会もまた確約されている。

連尺町のみなさんへ、この場を借りて改めてお礼申し上げます。また来年、どうぞよろしくお願いします。(塚本千花)


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