意味を求めない 2021年4月21日(水)

最近どうも文章を綴ることがうまく行かない。

コロナ禍以降店が忙しいのもあり、朝から晩まで仕事に追われているからもあって、単純に疲れている。

歳をとったからなのかもしれないし、仕事以外の居場所が無くなった感じがあるからかもしれないが、気力の低下が著しい。

この文章はそんな状況を変えたいという思いから書いている。

なんか、どうしたら良いか分からなくなっていた時に以下の記事を読んだ。

ぜひ読んで欲しい東浩紀の文章なのだが、僕はこの文章に心を動かされた。

生きる意味を僕はいつも問いかけていた。昔からそういう感じがあったのだが、特に2014年から強く自分に問いかけるようになった。2014年は僕の子供が死産した年。僕は未来に生命を繋ぐことが出来なかった。僕は種としての人間を繋ぐことが出来なかった事を引け目に感じるようになった。忘れようとしても忘れられず、忘れたと思ったら思い出し、今でもそのカルマの中に止まっている。

僕は常に自分の生きる意味を探していた。
地域活動に身を投じてきたのも、自分の存在意義を社会の中に残したいと思ったから。僕が生きていて良い意味を知りたかった。そしてそれはずっと僕の中で回り続けている。

そんな折に、東浩紀のこの文章を読んだ。

読者が子供から「生きていることの不思議」を問われて、東浩紀ならどう答えるかという質問に答えたこの文章。それを部分的に引用することに引け目を感じるくらいスキのない素晴らしい文章になっている。短い文なので最後まで読んでもらいたい。

この中で東は「ひとは無から生まれ、無に帰るのであり、生きることには意味がないが、しかしだからこそひとは生きているのだ」と説く。

このことは本当は僕たちは知っていた。子供の頃は意味なく生まれて意味なく生きてきた。
それなのに大人になった今、生きる意味を自分自身に問うようになった。それは死に向き合う年齢になったことと関係していると思う。残された時間を過ごすにあたり、自分の生が無意味であってはならないのだ。

東はこのように続ける。

つねに、意味の探究と意味の解除のバランスをとって生きていかなければなりません。

僕は明らかにバランスを崩していた。生きる意味にとらわれて、翻弄され、自分自身の足場を見失いかけていた。そのことに気づいた。

僕の人生は本当は無意味だ。個人の生は歴史の中において大それたものにはならないだろう。それでも生きていることが世界にとって意味のあるものであって欲しい。そう願うことはとても大事なことだと思う。それでもそこを突き詰めていくと自分の無意味さを知ることになる。

僕は子供をもうけることが出来なかったので、世界の中で自分自身の意味を問うこと自体が生きることだと強く思うようになっていた。子を繋げなかった自分そのものには意味が無いと思い、その意味とは何かを探すことに囚われていた気がする。
万事無意味だけど、それでも世界は存在する。だから美しい。

それで思い出したのが自分自身が二十歳くらいのガキの時分にに作って、今も無名の代表曲として一部界隈で愛してもらっている「流域」という歌だ。

「花は散りゆくだけ/川は流れるだけ/人は死にゆくだけ/だから君は美しい」と歌っている。今より子供だった時期に僕は人間の無意味について理解していた。生きている生命はいつか死にゆく。その無常と無意味の中で、だからこその尊さと美しさを歌い上げたこの歌は、今思うとなぜ作れたのか不思議なくらいである。

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