
内田篤人がもたらしてくれた3つのこと
【お知らせ】
— 鹿島アントラーズ (@atlrs_official) August 20, 2020
内田 篤人選手が2020シーズンをもって現役を引退することになりました。8/23(日)ホームG大阪戦終了後に引退の挨拶、8/24(月)にオンライン記者会見を予定しております。#antlers #kashima
プロフィール詳細などは公式サイトをご覧ください。https://t.co/VVzHHf8196 pic.twitter.com/xUC2xeh7Jr
また一人、偉大な選手がスパイクを脱ぐことを決断した。唐突な発表、シーズン途中での引退ということもあって、私もかなり驚いた。
もちろん、まだやれるという思いを持つ方もいるだろう。私もその一人だ。しかし、改善しない膝のコンディション、そのせいでピッチに立っても満足なパフォーマンスが出来ない、こうした状況でプレーを続けることのストレスは本人にしか分かり得ないものなのだろうし、そうした中で自ら身を引く決断を下したのだと考えれば、我々はそれを受け入れるほかないだろう。
ここでは内田篤人のこれまでを、彼が私たちに何をもたらしてくれたのか、という観点で振り返っていきたい。
トップクラスの実績
内田はデビューから他のルーキーとの違いを見せていた。2006年に鹿島アントラーズに加入すると、パウロ・アウトゥオリ監督によっていきなりシーズン開幕戦からスタメンで起用された。高卒ルーキーの1年目開幕スタメンは、鹿島では内田以外誰も成し遂げていない偉業である。
デビュー当初はまだまだ線の細さが否めなかった内田だが、2006年リーグ戦第4節のヴァンフォーレ甲府戦ではプロ初ゴールを記録。退団する2010年夏の約4年半に渡ってレギュラーを明け渡すことなく、着実に成長を遂げていった。
初ゴールから14年、選手生活に幕を降ろす✨#内田篤人 選手のJリーグ初ゴールは
— Jリーグ (@J_League) August 21, 2020
2006年3月21日 ヴァンフォーレ甲府戦。
当時17歳11ヶ月22日での初ゴールは
クラブ史上最年少ゴール記録となりました🦌
ゴール後には #柳沢敦 選手(当時)と熱い抱擁も👀@atlrs_official#Jリーグ pic.twitter.com/wSp0gfXXlm
こう書くと、たやすいことのようにも思えてしまうが、まだ10代のうちから常に勝利を求められる鹿島でレギュラーを張り続けるということは、どれほどのプレッシャーの掛かることだったのだろう。2007年に鹿島が大逆転優勝を果たした時、内田はまだ20歳を迎えておらず祝勝会にコーラで参加したのだが、最終節の清水エスパルス戦終了後の号泣を見て、私は内田がその時この環境下でいかにすごいことをやってのけているかということを改めて実感したのだった。
活躍は鹿島だけにとどまらない。2010年夏にはシャルケ04へ移籍。ドイツでもヨーロッパチャンピオンズリーグ出場が当たり前という強豪でもレギュラーを掴み取り、世界トップレベルの選手たちとしのぎを削っていた。
また、そのCLでは日本人としては初のベスト4の舞台にも出場。CLの準決勝でスタメン出場した日本人は、未だに内田篤人ただ一人だ。
日本代表での活躍も忘れてはならない。19歳で初招集されると、当時歴代4番目の若さで初キャップを飾った。その後、代表でも右サイドバックのレギュラーとして定着。南アフリカワールドカップでは、大会直前の戦術変更もあってピッチに立つことは叶わなかったが、その4年後のブラジルW杯では全試合にフル出場を果たした。
私が選ぶ内田篤人のベストパフォーマンスの試合は、そのブラジルW杯のギリシャ戦だ。この試合、結果はスコアレスドローに終わりチームは満足な結果を得ることは出来なかったが、右サイドから何度も攻撃参加を繰り返し、チャンスを作り続けた内田のパフォーマンスは、とても大会の4か月前に負傷して出場が危ぶまれていた選手のものとは思えなかった。
お手本となる選手へ
内田がシャルケに渡ったちょうど同じ時期、シャルケにはあるビッグネームが加入した。ラウル・ゴンザレス。レアル・マドリードで多くの栄光を掴み取り、スペイン代表でも活躍したストライカーは、レアル・マドリードを退団し、新天地にドイツを選んでいた。
内田が絶賛するように、ラウルはプレー面はもちろん、人柄としてもチームの中でお手本となれる存在だった。自らの地位を確立している存在でありながら、チームメイトに気さくに声をかけ、練習態度も真面目そのもの。実現はしなかったが、シャルケはわずか2年しか在籍してないのにも関わらずラウルの背番号である7番を永久欠番にする意向もあったほどであり、それがいかにラウルがシャルケにとって大きな存在かを示しているとも言えるはずだ。
鹿島に復帰してからの内田は確かに我々の期待するようなパフォーマンスを発揮した時間は限られてしまっていた。そういう意味では期待に応えられたとは言い難いが、それでも内田は鹿島におけるラウルのような存在になってくれたのではないかと個人的には思っている。世界トップレベルを肌で知り、本来の実力ならば日本トップレベルのプレーヤーであり、後輩の面倒見もいい。そうした選手が鹿島にいたという、復帰後の2年半の意味は決して小さくないはずだ。
代表的なのは内田に追いつけ追い越せとして、鹿島に加入してきた選手たちだろう。安西幸輝は憧れだった内田篤人と共にプレーしながら己を磨くことで、鹿島のサイドバックに定着、日本代表にも選ばれ、今ではポルトガルで挑戦を続けている。今季加入した広瀬陸斗は移籍の理由に内田の存在を挙げ、今ではその内田からレギュラーを奪い取り、チームに欠かせない存在となっている。来季、明治大学から加入が内定している常本佳吾も内田を尊敬する選手の一人に挙げており、内田が背負っている2番を取りにいきたいと抱負を語っている。
別のポジションでも鈴木優磨や三竿健斗、安部裕葵、そして染野唯月らのように内田のプレーレベルやプロ意識の高さを参考とする選手は鹿島の中で少なくない。たとえ、ピッチで思うような貢献が出来なくとも、内田は鹿島復帰後も計り知れないものを鹿島にもたらしてくれたと私は思っている。
サッカーへのきっかけを与えてくれた
私の周りには内田に影響されて、サッカーが趣味となったという方が少なくない。その中には、鹿島以外のチームを今では応援しているという方も多い。私は内田篤人が残した功績で一番大きいのは、サッカーに触れ合うきっかけを与え、サッカーファミリーを増やしてくれたことだと思っているのだ。
内田はそうしたオフザピッチでの振る舞いも一流の選手だった。元来持つスタイルの良さとイケメンぶりに加え、ファンサービスにも気さくに応じ、得意ではないはずのバラエティー番組やファッション誌の出演も多くこなした。シャルケ在籍時は日本に帰国した際は、必ずと言っていいほど鹿島のクラブハウスに顔を出して、練習に参加。そうした対応にも怠りはなかった。
彼がそうした振る舞いを見せてくれたことで、多くの方にサッカーを見てみようというきっかけが生まれたのは間違いない。サッカーはおそらく多くの人に知られているスポーツではあるが、それを趣味として生活の一部としている人となると限られてくる。ただ、知っているから好きになるのハードルは中々に高い。多くのJクラブや関係者、サッカーファミリーがそのハードルを下げようとあの手この手を今日も考えている中で、内田篤人という存在はそのハードルの高さを一気に下げることをやってのけたのだった。
さいごに
内田は日曜日のガンバ大阪戦を最後に引退する。だが、正直この試合で内田の出番があるかどうかは分からないだろう。チームは前節敗戦しており、連敗は避けなければならない状況だ。内田自身のコンディションも良いものとはいえず、チームには不動の地位を築きつつある広瀬の存在もある。
個人的には、内田自身がG大阪戦で引退試合だからという理由で起用されることをそこまで望んでいないように思える。それは10年前、内田がシャルケへと移籍するラストゲームの名古屋グランパス戦で、コンディションが万全でないながらもベンチには入っており、試合も大きくリードした展開の中で、最後の交代枠に自分が選ばれなかった時の心情が自著に書かれており、それと同じことを今回も考えているのではないかと思っているからだ。
監督は去りゆく選手ではなく、この1試合を勝ちきるために守備的な選手を送り出した。
このとき、思ったんだ。
「勝ちに徹するなあ。鹿島は真のプロフェッショナルの集団だな。こういうプロ意識、大好きだなぁ」って。
だからこそ、内田への最大のはなむけは勝つことだ。決して楽に勝たせてくれる相手ではなく、難しい試合になるのは間違いない。それでも誰よりも勝利にこだわる先輩たちの背中を見続け、それを受け継いできた男にはやはり勝利以外に贈れるものはない。
最後に内田の自著の一言でこの記事を終わりにしたい。
内田篤人選手、本当にお疲れさまでした。
アシストやゴールを決めることや、完封することよりも、僕にとって一番の喜びは勝つことだ。
タケゴラのTwitter
参考文献
内田篤人.僕は自分が見たことしか信じない.幻冬舎文庫.2013.54ページ,56ページ