歴史が繰り返されるのは怨霊のせい
というと、なかなかに非科学的にも思われるでしょうが、宗教というのは案外と論理的に出来上がっており、新興宗教ほどハリボテで辻褄が合わないものだったりします。
その一例が大川隆法の、イタコ芸で、イエスキリストを召喚した時、彼は英語で喋ったのです。イエスの生きていた時代には、まだ英語は確立されておらず、ヘブライ語か何かで喋るべきだったのです。
さて日本の神道は、実は宗教ではないという話は、すでにしましたっけ?
これは戦前では既定路線だったのですが、すっかり忘れ去られておることの一つです。
そもそも明治新政府が考えていた、日本の神社の頂点は、神宮であり、即ちそれは伊勢神宮を意味しました。
そうでなければ世襲制だった神職を追い出し、大麻(暦)の独占を取り上げたりしないでしよ?
また靖國は、明治天皇のご意向を受けて、戊辰戦争の戦没者を弔うために作られた招魂社であり、その性質は全く違うものです。
以前も申し上げましたが、この鎮魂という考え方は日本の古神道のものではなく、中国の民間信仰道教由来のものです。
戦後に、昭和26年に宗教法人法ができて、生まれた新興宗教がやってる戦没者への鎮魂を、まるで国家の祭祀であるかの如くやってますけど、そこに天皇陛下は赴かれませんよね。また宮中三殿で其々の戦争の戦没者へ対する慰霊、また菅原道真、崇徳天皇、平将門への慰霊を、国家の祭祀としてやっているか?
多分やってないと思われます。
これほど鎮魂とは神道とは縁遠いものなのです。
靖國は、軍神となった246万柱が祭神の殆どを占める、鎮魂としての社であり、神社行政を内務省神社局、文部省、時に宮内省が司ってきた中で、祭事のみ帝国陸海軍が行い、それも招魂と合祀の別も判らぬ連中が戦争中だけ大手を振って歩いていたような社なのですよ。
そして、靖國の統べる神社には護国神社があります。祭神は靖國と同じで分祀してあります。
つまり東京まで来られない人のために、日本各地や外地に作られたのですが、鎮魂のための社なので、ご利益というものがまるでない。
いまや全国で存亡の危機に立たされているのが護国神社であり、これは昭和17年に発行された『神社局時代を語る』という本にも「護国神社の扱いは、もう少しきちんと考えなくてはならない」といわれたくらい、全く雑なものであったのです。
だって旧軍コスプレもできないんじゃ、軍オタも誰も行かないでしょ?
明治新政府が五穀豊穣、国家安泰のために神仏を判然とし、新しい神道を作った。これだけでも新興なのですが、神道非宗教であったため、新興宗教とはボクはいいません。
但し、昭和26年に出来た宗教法人法の適用を受けた限り、今の神道は新興宗教です。
その中でも靖國は異質であり、五穀豊穣、国家安泰を、一度ぶち壊したんです。
ハッキリいえば、靖國とはカルトです。戦争をしなければ、やがて必要のなくなる社なのです。だから信奉者含めて、戦争ができる普通の国になろうなどというのです。
そして靖國のもう一つの問題は、ほかの宗教の信徒の魂を、鎮魂のために据え置き、成仏も昇華もさせないようにしている点です。
このことは靖國のHPに載っています。我々は鎮魂はするが、霊魂の救済はしない、とはそういうことです。
従って葬式を仏式で済ませ、戒名を頂いても、靖國に招魂されたら六道を輪廻できなくなるし、お盆にも帰ってこれない。キリスト教徒の魂は天国に行けないことになります。分祀を求めた裁判もあったけど、なぜか靖國の言い分が通った。
因みに靖國神社と天皇絶対制はカルトであると説いたのは、アメリカ合衆国です。
『汝の敵日本を知れ』という、フランク・キャプラ監督のプロパガンダ映画にそう分析されています。
幾つか間違っている箇所もありますが、かなり的確な分析、過去の日本の祭りのシーンなど見どころ満載です。
本来的には明治新政府の設定した神道は宗教ではないのですから、日本人は日本が生まれた日「紀元節」と、五穀豊穣を祝う「新嘗祭」を、国家と国民で祝えば良いはずなのです。ところがそうはならなかった。
それは、天皇を、神代の代から続く万世一系の現人神の直系と、設定した個人崇拝が原因です。
現人神とはヤマトタケルノミコトが、蝦夷の王に「我は現人神の子なり」といったと、日本書紀に書かれているのが元のようです。
ヤマトタケルノミコトは、第12代景行天皇の子であり、第14代仲哀天皇の父で、怒涛の英語みすず学苑の車内広告のヤマトタケル.Jrは、仲哀天皇なのかもしれません。
キリスト教、仏教、イスラムでは、神や仏、アッラーは、全て王様より上の存在です。
しかし明治新政府は維新軍、即ちクーデター軍であり、また諸国の武士たちに、新しい「お上」に従ってもらう必要があり、天皇を大元帥であり、また神でもあるとする必要がありました。
しかしどちらかといえば明治大正期には天皇は国家元首であり、主権者という考え方が一般的であったようです。というのは、新興宗教ブームがあったからです。
皆が明治天皇や大正天皇に対して信仰心を持っていれば、そんなブームは起こるはずないでしょう?
そして神道は非宗教でした。
さてその新興宗教で最も弾圧されたのは?そう大本です。
大本教ともいいますが、出口なおと出口王仁三郎により明治31年に発足した大本は、出口なおに憑依した艮の金神が、自動筆記(御筆先)による予言、お告げが人気をよびました。なおが死ぬと、今度は王仁三郎が大川隆法みたいなことを始めます。
これがまたある種の政治批判や、末法思想を語るものだから、知識人や軍人にも感化される者が出始め、ついに検事局と、内務省警保局特別高等課が動きます。
1921年(大正10年)第一次大本事件といわれ、出口王仁三郎は投獄されるのです。
さて第一次というからには、第二次が当然にあります。
保釈された王仁三郎は、裁判を争いながら新たな展望を開きます。
それは頭山満ら右翼との交流や世界各国の宗教との交流です。
そして1934年(昭和9年)に昭和神聖会を発足させます。
この発足会では、内務大臣や衆議院議員も祝辞を述べています。
まあこれほどになれば、弾圧など喰らわないと王仁三郎は、タカを括っていたのでしょうか?天皇機関説への批判、貧しい農村への支援、また皇族内閣の実現など、さまざまな主張をします。そしてその誓願も800万を超えたといわれております。
はて、この王仁三郎率いる昭和神聖会の主張なにか既視感が……そうです、数年後に二・二六事件を起こす帝国陸軍皇道派とソックリではありませんか!
そして1935年(昭和10年)12月8日内務省警保局特別高等課の指揮のもと警官隊が京都亀岡の教団本部に突入します。
再三再四右翼から警告を受けていたにもかかわらず、無防備で、あっという間に制圧されました。
因みにこのダイナマイトで破壊された教団本部を、作家坂口安吾は夜陰に紛れ忍び込み、実に俗でつまらないものだったという感想を残しています。
この宗教弾圧こそ、昭和10年までは天皇が絶対の現人神として、国家の祭祀たる神道と結びついてはいなかった証ではないかと、ボクは考えるわけです。
そして翌年に二・二六事件が起き、天皇絶対制という考え方で、国家全体を引き締めようとしたのでしょう。
その状態を国家神道ということができるのだと思います。
本来的には神道は非宗教であったはずなのに、宗教弾圧やクーデターなどの政治的不安定を経て、天皇絶対制と結びつき、宗教的にならざるを得なくなった。
それを主導したのは帝国陸海軍なのです、靖國を利用した。
しかし、それは明治政府がやろうとしていたこととも違う、出口王仁三郎率いる大本、昭和神聖会に対して、國體というものを守らんとしたもう一つの邪教ではなかったか?とも考えられるのです。
ゆえに靖國はカルトなのです。
ゆえに天皇陛下は、靖國を相手にされないのです。
考えてもみてください、菅原道真、崇徳天皇、平将門は今でこそ神様扱いですが、怨霊なのですよ。
鎮魂とは怨霊に対してやることなのです。
ということは、靖國の246万柱もまた怨霊になるに決まってるではありませんか。あれは英霊などでは、ないのです。
所詮は軍人の考えたことで、それまで内務省神社局や文部省、宮内省がやってきたこととは、辻褄が合わないのですよ。
そして新興宗教靖國は、なにか国教のような振る舞いをし、天皇陛下をすら批判しているのです。
従って、我々はあの246万柱の怨霊によって、大東亜戦争まえとソックリな歴史を繰り返させられているのです。
そしてやがて、第二次大東亜戦争へと結びつくようなことにもなりかねない。
それを防ぐためには靖國の解体しかないのですが、政府まで靖國カルトに浸っている現状では、なかなか難しいでしょうね。
怨念はな、そこにおんねん。
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