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広島のお城①福山城

おはようございます、ほどほど夫妻のたけちです。
今回からほどほど夫妻のウッチーの本「お城めぐり」に基づいて広島のお城たちを紹介していこうと思います。1回目の今日は100名城のひとつ福山城です。


【正真正銘の伏見櫓、現存三重櫓

福山城は輪郭式平山城、複合式層塔型5重6階の天守(非現存)、20基を超える櫓を持っていた巨大な城郭です😄

【これも現役!筋鉄御門】

1 概要

築城年は大坂夏の陣も終わり、完全に徳川の世が定まった1622年、築城主は水野勝成
1619年備後・安芸2国を領していた福島正則が武家諸法度違反で改易
その後、どうする家康の従兄弟の勝成が新たに創設された福山藩の初代藩主として入封
元和の一国一城令等により改修も難しくなっていた時代にかくも立派な近世城郭の完成型を築くのです。

【戦争で消失した御湯殿 でっぱりがええな】

2 福山城築城の理由

なぜ、10万石程度の藩がかくも立派な天守をもつ城郭を備えることができたか?

それは西の毛利氏に対する封じ込め政策、いわゆる西国鎮衛のためです。
徳川家がどんだけ毛利氏を警戒していたかがわかりますね。

【これも戦争で消失 月見櫓】

3 水野勝成

そして城とともに福山藩初代藩主となった水野勝成の人柄にも大きく関係しています。
勝成の前半世紀はまさに破天荒!
家康の従兄弟である勝成は16歳初陣で「高天神城の戦い」に参戦、15にも及ぶ敵の首を打ち取りかの織田信長から「比類なき活躍」と絶賛されるくらい将来有望な武将で天正壬午の乱や小牧・長久手の戦いでも活躍します。しかし、21歳のとき父の忠臣を「自分の不行状を父にチクった」として切り殺し、勘当😱
36歳までの15年間、各地を放浪します。
36歳のとき家康の仲立ちで父と和解し、家康の元に戻り、関ヶ原の前哨戦の一つ大垣城攻めに獅子奮迅の活躍😠

【勝成に攻められて逃げた人おあむ】

その功績により「日向守」の官名を授かります
この「日向守」というのが当時全く人気のない官名だったのです🤔
なぜか?それは明智「惟任日向守」光秀の官名だったから😱
当時の人々は縁起を担ぐことが多かったみたいですが、勝成は全く気にすることなく、その官名を平然と受け、その後も大坂の陣で活躍し、
「鬼日向」
と呼ばれることになります。かっこいい😆

【北側が弱い?からの鉄板張り!黒い】

勝成の後半生は福山藩の発展に尽くします。
福山城築城と並行して海の埋立や町人町の都市整備を行うとともに芦田川から水を引き入れる川を作りまた、上水道を作り侍屋敷や町人町に敷設
えっ?
公共事業のお金も幕府が出してくれたかって?
ノンノンノン🙂‍↔️
勝成が全国に先駆けて作ったのが「藩札」
地域限定の通貨であり、今でいう「地域振興券」的なもの?これで地域経済の流通の円滑化を図り、また、福山藩に移住してきた町民には「地子」という市民税を一定期間免除するなどの特権を与え、町人町の活性化を図ります。

なんて名君なの!

【水野勝成像】

その結果、何もなかったところから、福山城及び城下町としての都市機能がわずか3年間で整備されます。
そして広島県第二の都市として今に至ります。

4 名城スタンプ等

名城スタンプ、御城印及び名城カードは福山城博物館管理事務所でいただけます。
福山城を築城し、福山藩の礎を築いた水野勝成
彼は若い頃の失敗や苦労した経験、15年間の放浪時代の人脈を最大限活かすことで、最後は人民の心に寄り添える名君になりました。

ただ苦労する、自分の不幸を嘆くのではなく、いつでも自分の置かれた境遇を冷静に見つめ、楽しみ、教訓を得てそれを活かすことこそ、私たちが「よりよく生きる」ことにつながるとたけちは思いますよ。

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