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結論を任せること、ノンディレクティブであることへの葛藤に一区切りがついた


たとえば「結論は読者に任せようと思う」といった意味で結ばれる文章や、そのように準備されるワークショップに「ん?」と感じることがあった。一方で、予定調和的な、誘導的な、結論があらかじめ用意されておりそこに至るようにデザインされている場所に抱く違和感も強烈だ。

今年に入ったくらいから、とくに対人関係において「支配的な」態度や、目のまえのひとを見ず、それまでの自分の経験や経験からできるパターンに依存して目のまえのひとをあてはめていくようなコミュニケーションへの忌避感がふくらんでいた。これは放っておいたら自分がそうなってしまいやすいからだろうと思っている。「良くしたい」といった関わりかたがしんどい。目のまえのひとへの信頼があまり感じられないので。

このことを悩みながらいたときに読んだ、西村佳哲さんが書かれた『関わりかたのまなび方』という本。日本のワークショップの歴史をリードされてきた各々がたにインタビューをし、ファシリテーターとしての在りかたから「人との関わりかた」を思索した形跡を残した一冊。

このなかに、ワークショップの歴史と類型についてふれられている部分があった。ワークショップには「結論の出しかたまでデザインされているもの」と「結論の出しかたは参加者に委ねられているもの」が「構成的か/非構成的か」という整理がされることを知った。そして

  • 非構成的なものはノンディレクティブであるともいわれること

  • 日本でのワークショップの歴史のなかでは、ノンディレクティブなものが好まれてきたこと

も書かれていた。そうか、ぼくは関わりあいのなかで、ノンディレクティブであることを指向していたのですね。


ノンディレクティブであることへの葛藤


葛藤への整理がつき、指向性、どうありたいかが整理された次に待っていたのも、また葛藤だった。ノンディレクティブであることを意識すると、ものすごく自分自身への不全感が生まれたのだ。それは、どこかで責任を放棄しているんじゃないか?という気持ち悪さだった。

ワークショップにおいても、たとえノンディレクティブであったとしても、万全の準備は求められる。準備を怠ることの言い訳として「結論はみなさんに委ねます」の言葉が使われることも多いようだ。これは、ワークショップに関わらず。

ノンディレクティブであることを指向しながら対人関係に望むと、たとえば「ぼくにとっての結論」のようなものがあったとき、人によっては「まだこれは伝えない方がいいな」というシーンがあることがわかる。いまここでこの結論らしきものを言ってしまうと、それがその場/関係における答えになってしまうなというシーン。特にどうしても発生してしまう、上下の関係があるシーンでそのようなことが多い。

「一見、納得できるような、答えっぽいもの」を、「えーとさ、それは要するにさ」なんて切り出しながら話すと「・・たしかに!すごいですねっ!」みたいなリアクションが発生することもままある。そこからぼくは自己効力感を獲得していたんでしょうね。「すごいですね」と言われたい自分に自覚的になり、コントロールすること、これはまだ比較的できた(といってもやっぱり闘いですし、まだ闘いのプロセスのただなかです。ほんとうに「尊敬されたい」みたいな感情は厄介だ)。

ただ、「結論まで用意しないこと」に、責任感のなさを、どうしても感じてしまうのだ。サボっているんじゃないだろうか?もともと、そういう手の抜きかたがされているプロダクトや場所に対しての違和感に敏感なんでしょうね。

そんな新しい葛藤を抱えていたところ、西村佳哲さんが大阪にいらっしゃるイベントがあった。


梅田蔦屋で「本棚をつくる」という仕事を長年されてきたという、三砂さんの新刊の対談相手として。イベントのなかで、西村さんがご自身の著書に対して「半分は、読んでくれる人に預けたいと思ってつくっている」と話されており、イベント終盤に三砂さん西村さんに聞いてみたいことがある方はという呼びかけがあり、「西村さんは、読み手に託す、ノンディレクティブであるということにどう思われていますか?ぼくは、自分がなにか責任を果たしていないんだろうかとうう不安感があります」と質問をしてみた。

質問への答えは単純明瞭だった。西村さんの答えは

「自分がされてうれしいと思うことをしたいと思っている」

だった。

イベントの場では「とてもしっくりきました」というリアクションをしてしまったのですが、しっくりきましたというのは、「必要な言葉でした」が正しいですね。必要な言葉だった。

手を抜くことの言い訳で「結論はみなさんに委ねます」と目のまえに差し出されても、うれしくない。かといって、感じかたまで規定されているような場所も嫌だ。自分がうれしいと思う塩梅で、わたす。つくる。ああーーなるほど。すごい。こんなにシンプルに。

「自分の感性を拠りどころにする」というのは、それはそれで難しいことだろう。けれど、少なくとも場所やプロダクト、対人関係においては「これは、ぼくも、うれしい?」の問いに答えるぼく自身の感性は、信じられる。そうか、葛藤を抱えるとき、自分自身の感性をサーチライトのように、より意識的につかうというやり方があるんだな。

ずばっと、そんなことを教えてもらった。この葛藤を抱えてよかったな。

これからも対人関係においてノンディレクティブであるほうに、意識を傾けていたいと思う。


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