自分の潜在的欲求に気づくことは難しい

GWのど真ん中に一人旅決めてるバカがいる。私です。自分にとって旅に何を求めるのかを考える旅でもあるし、習慣的に、定期的に長距離移動をして、知らない街へ行きたいというだけかもしれない。いずれにしても、考えたいことがある。というより、考える時間を意識的に取りたいので、移動時間として強制的に拘束される旅を選ぶ。

もっと簡単に言うと、9連休でどこにも行かないのもねぇ、程度の内容のない動機によるもの。

主題に触れると、自分が本当にやりたいことって、そのときその瞬間にはたどり着けないものだなって思う。

例えば、僕は今まさに哲学を勉強しはじめていますが、それ以前だって哲学的思考が好きなフシはあった。何かの意味を考えたり、何をもってそれが良いと言えるか考えたり、言葉は何をどこまで伝えることができるのかを考えたり、そういうことが好きだった。

哲学史を簡単に追うだけでも、それらのことが過去に考えられてきたことは簡単にわかるが、だからといって簡単に「じゃあ哲学を勉強しよう」とはたどり着かなかった。

そしてなかなか捉えどころのない哲学でさえ、全体の中で僕が興味あるものはそのうちの一部であることに気付きつつある。特に言語について関心があるようだ。別にすべての根源がどうだとかはすでにどうでもよく、現代の人間だからこそかもしれないが、あらゆる価値は相対的であり、万物の真実となる正解はないという価値観も自然に刷り込まれている。

あぁ、僕は本当はこのことが知りたかったんだ、と気づくのは、周辺分野を勉強したあとです。

これは勉強に限らず、あれ?音楽が好きなんだっけ、なんで好きなんだっけ。実は音楽が好きなんじゃなくて表現さえできれば何でもよかったんだ、とか。

自分の根源的欲求に気づくことは難しく、時間がかかり、かつ偶然によって成り立つ。

自分の興味関心は移り変わっているようで、まだ見えてない、ただ1つのことにだけ関心があるかもしれないし、それはそれに到達しえないものかもしれない。(それこそ捉えどころがなく、極限を言えば真の真実を求める態度になるかもしれない)

何かにハマっては離れ、何かにハマっては離れ、興味関心があることを、その時々で友人に話し、自分を進めていく。なかなかこういう生き方は自分でも満足している。

旅の話に戻る。

旅は、自分の根源的欲求を見つける手がかりになるかもしれない。旅は移動時間という思考の時間と、現在の欲求に伴って普段自分が生活していない地域で行動するから。自分の欲求に似たようなものに出会うかもしれないし、偶然にも別のものに出会って惹かれるかもしれない。

思考時間と、旅の偶然性と、自身の欲求にしたがって行動する態度が合わさって、次の欲求につながると言われれば、まぁそうかなと思う。

僕は言葉について考えたい。言葉が他者へおよぼす何か。言葉そのものが持つ何か。言葉そのものが持つと錯覚していて、実際には異なる何かが何なのか。考えたい。

自分の根源的欲求に終わりはない。移り変わりながら旅をしながら人生を楽しみたい。

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