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透明人間になってしまわないように


こんにちは、ピッピです。

 少し前に、「ピッピにとって写真は何?写真を辞めるデメリットは?」と聞かれたことがあったので、考えてみるとなんとなくですが自分の答えが見つかったような気がしたので今回はそのことについてお話しようと思います。

(今回はいつもより重くなっていますので、気分を害されたら申し訳ありません。)

 先月末に兵庫県立美術館王子分館原田の森美術館という大きな会場で、展示をさせてもらったのですが、そのような大きく素晴らしいところで展示をするということは「写真を本格的に勉強を始めた。街の画廊の企画展などに数回展示をしたことがある程度」の自分には、想像以上の壁がありました。

 そんな私にも主催者の方は、私の写真に期待を込めてお誘いから展示するときの写真の選び方などお世話になりました。

 その中で、たくさん迷走していた私に「ピッピにとって写真は何?」と聞かれたときにそれまでは、「得意だから」「シャッターを押すのがすきだから」「辞める理由がなかった」という井の中の蛙になってなんとなくでやっていたなと今振り返れば思います。


 でも最近、「写真を辞めるデメリット」が自分の中で詳細に出てきたと思います。

 写真を本格的にするには、印刷代、カメラのメンテナンス代から個展を写真を売ろうと思ったら会場のレンタル代なども考えたら写真をするにはどれもデメリットだらけだよと他の方からも言葉をもらったときに、

 確かに自分はまだ大学生でお金もないし、大きいところで展示をしても高額な値段をつけてもらって売れるような実力もないのに、自分がどうしてしているんだろうと考えたときに、「本格的に写真を始めてからの出来事、記憶」を思い出してみました。


 私は、小さいころから大人数が嫌いではなかったんですがすごく人見知りで苦手でした。大人になっても、大人数はむしろ好きでそこにいる人たちの話を聞いて眺めるのが好きだったんですが、人見知りの私は「自分はここにいる!私は今これがしたい、好き!」みたいな能力が人の10倍ぐらい苦手なんじゃないかと思うほど意思表示をしてアピールするのが今も苦手です。

 それは、別に大人数の時に限った話ではないと思います。自分以外のひとがその場に二人でもいると話すタイミングを見失ってしまう。

 (しかし、SNSは常に自分からいつでも発信できるのでありがたくて撮った写真を毎日載せていました。)

 そんな自分にはどんどん当たり前のように話しかけなくなっていき、自分が透明人間なんじゃないかと思うほど、自分でも本当に今存在しているのかわからないときがあるほど年齢が経つにつれ、この前まで仲良かった数人のグループでもどんどん透明人間になっていっているのを感じていきました。


 でも、写真をして展示を何回かするようになってから「今度写真展行くね!」「ピッピの写真好きだよ」と言ってくれる親戚、友達、フォロワーさんが出来ていって写真のおかげで少しばかりですが自分がかすかに色のついたギリギリ認識できるぐらいには「ちゃんと自分はここにいいる」と示すことが出来るようになったように感じます。

 自分は「ちゃんと自分は今生きてる、ここにいる」という存在感を出すために写真をしているのかと思います。

 他の人からすればどうしても写真じゃないとダメなのかと思われると思うんですが自分はそれが写真じゃないとダメな気がします。




 この、実感に気づくきっかけは決して自分だけでは出来なかったことで「写真を辞めるデメリット」の答えも前よりは明確にわかったような気がします。


長々とした内容で、載せようか迷うほど重たいなあと思いながら書いていましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。







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