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知られざる太平洋戦争のドラマ⑨

義足の撃墜王、檜與平の復活劇

「鉄脚」の異名を持つ陸軍飛行士

戦闘機の機銃は金属をも撃ち抜く威力があり、そんなもので人間が撃たれたらひとたまりもない。生き残ることが出来たとしても、手足の切断となることも珍しくはなく、不具となった負傷兵は前線から帰還するのが普通だ。
しかし第二次大戦時では、義足を使って戦場に戻り、エースと呼ばれる活躍をしたパイロットもいる。有名なのは、ソ連対空部隊との戦いで右足を失いつつも、義足で戦場に復帰し、500輌以上もの戦車を撃破したドイツ空軍のハンス・ウルリッヒ・ルーデルだろう。
そして日本軍にも、厳しい治療の果てに義足で復帰したパイロットがいる。「鉄脚」の異名を持つ陸軍パイロット、檜與平少佐だ。
檜は1940年に陸軍航空士官学校を卒業すると、飛行第六十四戦隊の一員として南方に派遣される。第六十四戦隊は加藤建夫中佐が指揮したことから「加藤隼戦闘隊」とも呼ばれ、南方の主要な作戦に参加してきた精鋭部隊である。
加藤はビルマ作戦中の1942年5月22日に、イギリス軍機の攻撃で海上に突入して自爆するが、部隊は後任の八木正己少佐(1943年2月に戦死)や残存のエースに支えられ、終戦まで南方防空の要として活躍することになった。

性能に勝る敵戦闘機を撃墜
 
この南方時代で檜が見せた功績といえるのが、「マスタング」の初撃墜だ。
1943年11月25日、ラングーン上空にて部下の3機と哨戒飛行をしていたところ、上空4000メートル付近を飛行する7機のアメリカ戦闘機と遭遇した。
この戦闘機こそが、最強のレシプロ戦闘機と呼ばれる「P-51」、愛称「マスタング」である。
日本陸軍の主力戦闘機は「一式戦闘機」、通称「隼」である。だが、「マスタング」の性能は「隼」を上回る。
初めて遭遇する強敵にも、檜は果敢に攻撃を開始。訓練中の教官機を攻撃していた「マスタング」は檜の接近に気づかず、後上方からの奇襲攻撃で主翼付根を破壊されて撃墜されたのだ。

失った右足首と懸命のリハビリ

檜による「マスタング」の撃墜を司令部は賞賛した。だが、この2日後に檜は手痛いしっぺ返しを受けることになる。
ビルマ上空に飛来した約80機の爆撃機隊を攻撃している最中、敵爆撃機を深追いしたすきをねらわれた檜は後方から奇襲を受けた。
しかも奇襲してきた戦闘機は「マスタング」だ。
檜は重傷こそ負ったものの、何とか基地への帰還に成功。だがその傷は想像以上に深く、右足首が機銃弾でちぎれていたのだ。
本土に帰還した檜は早稲田の陸軍病院に入院となったが、日本軍では手足を失った兵は前線に戻れないのが常識である。それでも檜は前線復帰をあきらめず、ジュラルミン製の義足をつけてリハビリにはげむ。
朝は日の出の前から起床して、人目を避けながら歩行訓練を続けていた。ときには守衛から自転車を借りてまでつづけた猛訓練で、足の皮膚がむけてはれあがり、義足をはく激痛で涙を流したこともあったという。
そうした努力の甲斐もあり、檜は1944年11月27日から、もう一度戦闘機に乗ることを許された。

義足による操縦ではたした雪辱

この時点で檜は戦闘要員ではなく、明野教導飛行師団の教官としての復帰だった。しかし1945年に入ると、本土空襲の頻度が高まったことで防空任務に戻ることとなる。
そして同年7月16日、檜は再びアメリカ戦闘機隊と対峙したのである。
敵編隊の伊勢湾北上を知らされた檜の部隊は、24機をもって要撃に出撃した。
約1年半ぶりの実戦で檜が遭遇したその敵は、自分の足を奪った宿敵「マスタング」。
このとき檜は最新鋭の陸軍戦闘機「五式戦」に乗っていたが、敵の「マスタング」も改良されて1943年の機体より性能は大幅にアップしていた。
しかも、敵機の総数は250機。一人につき10機を相手にするという、圧倒的不利な戦いだった。
檜は編隊長と思しき機体をねらったが、やはり義足では操縦がうまくいかない。足から感覚が伝わりにくいので、飛行機が安定せずに左右へすべりすぎる。そのため標準もうまくあわせることができず、50メートルの至近距離に接近しても命中は難しい。
それでも技術とカンを頼りに追跡を続け、20メートルまで近づいたところで機銃を撃ち込んだ。弾は主翼をもぎ取り、檜は1年半前のリベンジをここに達成したのだ。

撃墜スコアは12機のエースパイロット

ただ、空戦そのものは日本側の圧倒的不利で進み、檜も15機の敵機に包囲されるピンチにおちいっていた。
結局、この伊勢湾の空戦は、アメリカ側が250機中6機撃墜されたのに対し、日本側は24機中5機を失うという敗北に終わった。
その後、檜は飛行第百十一戦隊の第二大隊長となり、転属先の小牧飛行場で終戦を迎えることとなる。
最終的な撃墜スコアは12機。
足を失ってもなお不屈の闘志で蘇った鉄脚のエースの戦いは、ここに幕を下ろしたのである。
なお、檜が使った恩寵の義足は、現在も入間基地内の修武台記念館に展示されている。
 

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