武器を使わない情報戦―プロパガンダ㉚
日本人に親米思想の基礎を植え付けたGHQ
アメリカ式民主主義を浸透させたCIE
日本に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)の最初にして最大の課題は、日本国民の懐柔だった。
太平洋戦争後、アメリカは日本国民への民主主義教育を徹底しようとした。だが、相手は数日前まで「鬼畜米英」のスローガンを信じていた約1億の国民である。日本国内のメディア・インフラも想定以上に機能しており、GHQは日本独自のメディア力を早期に取り上げ、手早いプロパガンダ戦略を取る必要に迫られたのである。
日本国民の教化達成のため、GHQ内部に置かれたのが「民間情報教育局」(CIE)だ。CIEはアメリカ軍の心理戦部隊を根幹とし、日本や朝鮮半島で活動をするため再編成されたのがはじまりとする。
運用がGHQに移管されたのは1945年10月2日のこと。部署は調査、計画、広報、映画、ラジオ、学校、運用、組織で構成され、おもな目的は日本人や朝鮮半島の人々を教育することであった。教育基本法制定への関与が知られているが、プロパガンダ活動も任務だったのである。
CIEの調査と計画部署は、大衆へのメッセージが重要と捉えていた。日本軍がいかに民衆を裏切り、見当違いな侵略を進めていったかを示すことで、アメリカ式民主主義の浸透を進められると考えた。ただしGHQだけが主導するのではなく、日本を自由主義化させるためには日本人の意識そのものを変革させ、大衆が自ら義務を遂行することが肝心だとした。
C IEはこれを「精神的武装解除」としている。つまり、GHQが押し付けるだけでは効果は不十分であり、日本人の自発的行動に期待したのである。そのために必要となったのが、日本の既存メディアと政府機関の協力だったのだ。
政府機関と連携した世論調査
GHQの宣伝がはじまる前から、日本は自発的に親米国内工作を行っている。それは玉音放送以降に予想される反米活動や混乱を防ぎ、国内に平静を促すためだ。
8月27日には千葉警察にて連合国軍への友好的態度を促す通知が下り、特高も10月2日にアメリカ人への接し方を記したガイドブックを全国警察に送付している。いわば、アメリカを迎える下地はすでに出来上がっていたのだ。そのおかげで、各地への進駐は比較的円滑に進行していった。
内閣には世論調査組織の「内閣調査局」(後に内閣審議室)が設置され、顧問となったのは戦前プロパガンダの専門家である小山栄三だ。職員の3分の2が戦前の世論捜査にかかわった元情報局局員で、戦後も世論データの収集に携わっていた。
世論の動向を掴めなければ、正確なプロパガンダは難しい。そのためCIEは、日本の世論調査事業との提携、あるいは競争が必要であると判断する。かつて宣伝工作に携わったはずの小山が要職追放の対象外になったのも、その表れだとされている。
こうした世論調査組織との競合を展開することで、世論データを相互補完していく一方、CIEは既存メディアを利用したプロパガンダも進めている。
CIEが活用した既存メディア
朝日、読売、毎日の三大紙を中心とする新聞各社では「太平洋戦史観」を全10回連載し、CIEが編纂した史観を広めようとした。編纂作業には軍事諜報機関G-2が雇った元日本軍将兵たちが関わっていたが、当然ながらGHQの検閲が入っている。
もちろん日本国民に検閲の事実は知らされていないので、太平洋戦史は情報源を明確にしない「ブラックプロパガンダ」だとする批判も根強い。なお、情報源を公開しているプロパガンダは「ホワイトプロパガンダ」と呼ばれる。その後、「太平洋戦史観」は単行本にもなり、10万部をこえるベストセラーを果たしている。
ラジオにおいても、12月9日よりNHKラジオ番組「真相はこうだ」が放送された。表向きはNHKが独自に制作した番組となっていたが、実際はCIEのハーバート・ウィンドが脚本を手掛けていた。
放送内容は、当然ながらアメリカ史観に沿った戦争史観と軍国主義批判である。CIEはこの番組を日曜の午後8時、月曜の午後11時30分、木曜日の午前11時と週3回、あらゆる時間帯で各30分ずつ放送させた。翌年には「真相はこうだ 質問箱」という続編も制作しており、ハーバートの日記によると番組の評判は賛否両論。非難と抗議が多数ある一方、「もっと真実が知りたい」と支持する手紙もかなり送られたようだ。
しかし、こうしたCIEのメディア戦略で、日本人の間に軍国主義を否定する空気が生まれたことは間違いない。そこには日本の土台作りと協力、そして競争もあったのである。