武器を使わない情報戦ープロパガンダ②

プロパガンダを本格化させた日本海軍


陸軍よりも遅れていた宣伝活動

 早期にプロパガンダ研究を手がけた日本陸軍とは対照的に、海軍は乗り気でなかった。日本海軍のモットーは「サイレントネイビー」。つまり、任務と結果に対して一切の言い訳をしないという信念だ。プロパガンダ戦略はこのモットーに反するので、海軍が嫌ったのも無理はない。
 それでも宣伝に無頓着だったわけでもない。戦争遂行には国民の支持が不可欠だったので、民間向けの宣伝活動も手がけている。1924年に設置された軍事普及員会も、国民の海軍支持を高めるための組織であり、演習も非公開から公開路線に転向していた。当時進んでいた海軍軍縮に対する国民理解と、予算確保のため宣伝を解禁したのである。
1930年10月22日には、海軍として初めて民間に演習の成果発表を行い、25日には軍令部総長自らが演習の談話を発表して、兵力不足に関する理解を国民に訴えている。
 しかし、こうした海軍の路線変更に国民は冷ややかだった。東京朝日新聞1930年12月26日付の記事では、演習を宣伝利用する態度を厳しく批判。「この一年来の軍令部はどうかしてるのではないかとまで疑はれる」と締めている。また、軍事普及員会も1932年に「海軍省軍事普及部」に改称されて宣伝広報を担当したのだが、軍人間では閑職扱いされる有様だったという。
まさに海軍のプロパガンダに対する意識は、陸軍より二歩も三歩も遅れていたといえよう。

世論を盛りあげるための工作活動

 ところが、太平洋戦争になるとそうした態度は一転する。国内宣伝を積極的に推し進め、かの大本営発表をも主導することになる。
 海軍の宣伝姿勢が大幅転向した原因はふたつある。まずひとつは「ロンドン軍縮条約」からの脱退だ。海軍は1935年に迫ったロンドン軍縮条約の改正問題に際し、積極的な世論工作を行った。海軍省内の記者クラブである黒潮会にも積極的に資料や知識を提供し、好意的な記事を書かせようと試みてもいる。そうした工作の助けもあり、日本は1936年1月に会議を脱退し、軍縮条約も失効された。
 ここで世論誘導に協力した組織が支援団体の海軍協会であり、日中戦争勃発後も後援活動に取り組み、宣伝工作も活発になっていく。次第に国内世論も対米強硬化が進み、日米開戦へと突入した。条約脱退を巡る工作活動の中で、海軍は宣伝工作のノウハウを学んだのだ。
 もうひとつの理由は、平出英夫大佐による「報道改革」である。平出は1896年2月9日に青森県上北郡三沢村(現三沢市)の旧斗南藩士の家系に生まれ、1917年に海軍兵学校を卒業した。1940年には大本営海軍報道部の報道課長として宣伝報道に携わることになる。
 フランス・イタリアへの駐在経験がある平出は外国語が達者で弁も立ち、海外製の小物を好む小粋な身なりから「東条、平出、双子山」とも評されたという。
 報道部に着任した平出は組織の構造改革に乗り出した。組織のトップは報道部長だったが、実務を掌握していたのは課長の平出だ。さらには大本営第一課長富岡定俊大佐とのつながりもあり、行動の自由が効きやすい状況にあったといえる。

軍部報道の実権を握った海軍

 まず、平出は海軍省内に「報道部別室」を新設。これは、軍に囲い込んだ元新聞記者たちに演説原稿や宣伝文を作らせるための部屋である。素人の軍人が手がけるよりも、元プロに任せるのが効率的という判断からだ。
 さらに平出は、サイレントネイビーの伝統にも囚われなかった。1941年5月27日の海軍記念日には、ラジオで30分にもわたる演説を行っている。「海軍の精神」と題する演説は非常に好戦的な内容で、海軍の大兵力で敵軍を粉砕すると豪語したばかりか、第二次世界大戦への参戦すら仄めかすほどであった。
そして演説を取り上げなかった朝日新聞には圧力をかけ、後日紙面に無理やり掲載させた。当時はすでに内閣情報局に異動してはいたが、まさにサイレントネイビーに囚われない豪胆な態度である。
 こうした改革の一方で、陸軍報道部では事件が起きている。報道部長の馬淵逸雄大佐が政権批判の演説を展開し、当時の東条英機陸相に罷免されたのだ。この混乱は海軍にとって幸運だった。なぜなら、報道に秀でた馬淵の更迭で陸軍報道部の権力は弱まり、海軍報道部の力が相対的に増したからだ。
かくして軍事報道の実権は海軍が握り、そのまま太平洋戦争に突入することになった。このような軍縮条約を巡る宣伝と、平出の改革、そして陸軍内の混乱が、海軍を宣伝戦に目覚めさせたのである。

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