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多くの崩御年次が存在する継体天皇 『日本書紀』によると、継体天皇は皇子の勾大兄(のちの安閑天皇)に譲位し、その即位と同日に崩御したとする。年次は辛亥の年(531年)だが、甲寅の年(534年)とする異説も載せている。なお『古事記』では527年としている。 531年説は百済の史書『百済本記』によるものだ。記事には「日本の天皇および太子・皇子倶に崩薨」とあり、記述が正しければ継体天皇と皇子も同時に亡くなったことになる。その皇子がだれなのかは不明だが、太子が皇太子を意味するのであ