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日本古代天皇史~神武天皇から安徳天皇まで

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2000年以上ともされる天皇家の歴史の中で、伝説の時代から、もっとも権威の強かった飛鳥・奈良・平安時代の動きを紹介。過度に賛美することなく、もちろん卑下することもなく、あくまでも… もっと読む
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#古代天皇史

日本古代天皇史⑬

藤原仲麻呂の台頭と橘諸兄の失脚  孝謙天皇は、このときすでに32歳、しかも独身であった…

日本古代天皇史⑪

天智天皇の即位と叔父と甥の確執  父帝の死後、政争に巻き込まれることを嫌った有間皇子は…

日本古代天皇史⑨

ふたたび勃発した後継者問題  舒明天皇は第1回目の遣唐使派遣(630年)や九重塔を備えた百済…

日本古代天皇史⑧

推古女帝は中継ぎやお飾りではなかった  推古天皇が即位したとき聖徳太子は19歳だった。若く…

日本古代天皇史⑦

崇峻天皇暗殺事件  30代敏達天皇は廃仏派であったとされ、そのために物部氏が勢いを増してい…

日本古代天皇史⑥

廃仏派と崇仏派の内乱「丁未の乱」  古墳時代から飛鳥時代ごろの政治機構は、大王と呼ばれ…

日本古代天皇史④

多くの崩御年次が存在する継体天皇 『日本書紀』によると、継体天皇は皇子の勾大兄(のちの安閑天皇)に譲位し、その即位と同日に崩御したとする。年次は辛亥の年(531年)だが、甲寅の年(534年)とする異説も載せている。なお『古事記』では527年としている。  531年説は百済の史書『百済本記』によるものだ。記事には「日本の天皇および太子・皇子倶に崩薨」とあり、記述が正しければ継体天皇と皇子も同時に亡くなったことになる。その皇子がだれなのかは不明だが、太子が皇太子を意味するのであ