死刑制度と感情論

7月26日、秋葉原殺傷事件の被告・加藤智大の死刑が執行された。

国が執行にこの日付を選んだことには、ある種の無神経さや、悪意すらも感じた。
なぜなら、2016年の相模原障害者施設殺傷事件の発生と同じ日付であり、世間にとっては祈りの日であるばかりか、優生思想を問い直す日でもあったからだ。
優生思想は極限すれば「殺してもよい相手を判断する」思想であり、その点に限れば、死刑制度と通底している。
国民が改めて優生思想の否定を表明しようとするまさに同日、死刑——相手を選んだ殺人が、国によって行われたことになる。
そのため、僕はこのニュースで、心臓に鈍い痛みを感じた。

では「別の日ならよかったのか」とか、「殺害された被害者と、殺人を犯した加害者を同列に並べるな」という言葉が聞こえてきそうである。
それらについては「そういうことではないのだ」としか、僕には言えない。ではどういう問題なのかと問われても、答えることができない。
これはあくまで僕個人の、主に感情にもとづく意見に過ぎない。

つまり感情論である。

感情論は「論」とついても、論理的ではないから、本来は僕が上で述べたことのように受け流されても仕方のない性質のものである。

しかし感情論は、死刑制度をめぐる議論全体を眺めてみると、そこかしこに溢れかえっている。

僕が観察した範囲に限って言えば、死刑制度に対しては、3つの立場がある。
賛成派、反対派、それから「礼賛派」だ。
「礼賛派」は賛成派の一部とも言えるが、直情的かつ非理知的という面で、他の反対派とは異なる。
彼らの発する言葉はときに過激で、聴くに堪えない。

しかし、殺傷事件においては、被告の死刑を望む遺族の被害感情というものがある。
被害者や遺族にとどまらず、ある事件が社会に与えた影響・ダメージの大小もまた、被害感情として換算される。そしてときには、これがその被告の量刑を左右することにもつながる。
すると、最も被害者遺族に寄り添っているのは、実は最も感情的な「礼賛派」の人々かもしれないという、やりきれない現実が浮かび上がってくる。

司法制度の実質的な運用の中でも機能する感情論。これは被害感情に限らず、加害者の動機にも関連する。(加害者が犯行時の感情を分析的に、理論として展開したところで、そこには「物語性」が付き纏う。ある程度感情にもとづいた行動をとった時点で、それを言葉で説明するという行為もやはり「感情論」の域を出ないのではないだろうか)

ここで僕が気になったのが、死刑制度をめぐる賛否の議論において、感情論は一体どれほどの効力を有するのか。また、どれほど重要視されるべきなのだろうか、という点である。

上で「礼賛派」の存在について述べた。では、普通の賛成派や反対派が、感情論を抜きに議論しているのかというと、そうでもない。

例えば、「もし自分の家族や友人・恋人などの身近な人物が殺害されたとしたら」という仮定がある。
これは主に賛成派が反対派への反論に用いることが多いが、それについて自問し、葛藤しない反対派はおそらくいないだろう。これについて考えたこともない反対派がいるとしたら、その人の意見はほぼ聴くに値しない。
完全に感情に訴えかけた理屈ではあるが、確かにこれについて考えなければ何を言っても嘘になってしまう。

しかしこの問いかけは、問われた本人の個別の事情や心構えに依るしかなく(実際に被告の死刑を望まなかった遺族もいるように)、人の数だけ答えがあり、つまり正解はない。そういう意味では反則的な質問と言える。

また、この仮説を一般論として眺めるならば、このとき賛成派はある観点を欠いている。
それは、「もし自分の身近な人物が死刑判決を受けたとしたら」という点である。
「加害者の家族もまた被害者である」という問題もまた現実として起きていることを失念しているのだ。
賛成派もこの問いかけに葛藤しなければフェアではないように思うが、いかがだろう。
賛成派がどちらかと言えば「現状維持」の有利な立場にあり、「変革」を求める反対派は不利だとい前提がある。この一点で、賛成派の方にハンディキャップがあってもいいくらいではないかと思うのは、これも感情論だろうか。

話は跳んで、今月の8日には、参院選の応援演説中に安倍晋三元首相が銃撃され、死亡する事件があった。
撃たれる瞬間の映像はショッキングであるにもかかわらず、連日テレビで流されることでセンセーショナルを引き起こした。それを見た国民は少なからず感情的になる。この現象には安倍元首相が有名人であることも手伝ったはずだ。

一方で、死刑執行は密室で行われ、衆目にさらされない。それによって、良くも悪くも、死刑執行は国民の感情をほとんど刺激しない、無機質な情報として消費されてしまう。

ことの重大性や価値というものが、その情報の伝えられ方次第で決まる時代性に着目してみる。報道がセンセーショナルな色合いを帯びるほどに、そこには感情論的な公平性に疑念が生じてくる。
上でも少し触れたように、被告の量刑というものには、被害者遺族などの被害感情も影響してくる。すると、殺害された被害者が有名であったり、遺族などがいた場合には、彼ら彼女らの無念の声が報道されたりすることで、それは「重大な事件」となる。
他方で、被害者が無名かつ孤独な人生を歩んでいた場合には、人々にとってそれは「事件ではなくなる」ことがある。

例えば「無差別殺傷事件」(その多くは弱者を狙うため、「無差別」と言うと語弊が生じるのだが)の加害者が、自分が殺害する相手に遺族がいるかどうかなどを、果たして気にするだろうか。しないだろう。

最後に、死刑執行の報道を無機質なものだとは述べたが、やはり一部の国民にとってはショッキングなことには変わりがないし、賛否による分断も生まれる。そのような国民の感情を支配する「スイッチ」を国が握っており、いつでも押せる状態に対して、ある種の危機感を覚えるのは僕だけだろうか。

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