新米教師とプロ教師

1977年(昭和52年)4月、春の荒々しい日本海を小型旅客船の船底で船酔いと闘いながら1時間。13個の段ボール荷物と共にようやく初任地の離島に到着。到着したその夜、早速校長住宅に呼び出される。一升瓶を抱えた校長からコップに並々と日本酒をつがれ、「やる気がなかったら今すぐ帰れ!!」と、洗礼を受ける。今風に言えば「びっくりポンや。」(実はとっても思いやりのある校長先生でした。)
新米教師としてスタートして数か月。ある日、先輩教師が授業参観に来てくれました。子どもたちと格闘し、授業の折り返しにさしかかった時、授業を見ていた先輩が「ちょっと代わってごらん。」と言って、交代してくれました。
そして、先輩教師が言葉を発したとたん、子どもたちの眼の色が変わり、それまで戸惑い、どんよりしていた眼がキラキラと輝きだしたのです。
驚きと感動、そして、いったい何が違うのだろうという疑問を持つと同時に、いつか自分もあんな授業をできるようになりたいと考えていました。その後、専門書を読みあさり、「これだ!」と思える本に出会えることができました。  
そして、先輩教師の授業をあらためて振り返ると、先輩教師の発した言葉(専門用語で「発問」といいます。)は、実は計算されつくしたものであることがわかりました。
まずは、その1時間の授業で何を教えようとしているのか。そこにたどり着くまでに、子どもたちに何を考えさせ、何に気付かせるのかをはっきりさせ、そのためには、どういう言葉を発すれば良いのかをしっかり準備しなくてはならないのです。
学校では、授業時間というものが決められており、その時間の中で効率的に教えていかなければなりません。1つの教材(題材、物語など)を通して何を教えるのかを絞り込まなければなりません。1つの教材を使って無計画にあれもこれも、しらみつぶしに教えることを業界では「教科書を(・)教える」と言い、計画的に絞り込んだ内容を教えることを「教科書で(・)教える」と言います。これが、新米教師とプロ教師の大きな違いとなります。

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