令和2年 敗戦の日に想う
今年の8月15日は75回目の敗戦の日です。テレビ報道で私の住む熊谷が14日に最後の空襲を受け266人が亡くなったと紹介されていました。「日本の一番長い日」のように熊谷が空襲を受けた時点で既にポツダム宣言受諾が決定しており、被災された方の無念を思い心が痛みます。
「戦争は2度と起こしてはいけない。」当たり前です。
戦争は誰も幸にしません。全家族を不幸にする争を文明人が許せるはずがありません。私たちはそう教えられ、自らもそう考えます。しかし、理不尽な暴力に対してどう対処してよいのかも学ばなりません。
別考でも書いていますように、日本が過去の戦争にどのようにして巻き込まれたのか、何故侵攻したのかを学ばずして自虐史観ばかり刷り込んでいけば現在進行形のウイグル、チベット、香港、台湾、沖縄その他の紛争地同様、世界から見放されて強者に跪くしか術はなくなるでしょう。
少なくとも私たちのお盆で帰ってきている先祖の御霊は、その道に坑(あらが)ったのです。
その後祖先の全てを否定して次の紛争の時に甘んじて侵攻を受け入れるというのは、少なくとも私にはできません。他国は絶対に助けてくれません。自国の利益にならないことはしません。見返りを求めない正義の味方などいないのです。いるとしたら少なくとも旧日本人にはそのような気持ちもあったかもしれません。先に挙げた国や地域の人々の現状を見てください。
話せばわかる世界ではないこと、少しずつ分かってきたでしょう。外交力も経済力も低下している日本、話し合いでは解決できない侵攻が既に始まっています。抗わなければ飲み込まれるのです。特に日本を助けることに外国がメリットを見出さなければ見て見ぬふりをされるのです。これが現実なのです。米国人が日本のためになぜ血を流さなければならないのですか。日本人が後方で支援して米国人を前線に送って日本のために防御させるなぞ米国の家族が許しません。日本が守り切れなかったとき米国の国益のために彼らは戦うのです。
自国が血を流してでも守るのか、戦わずして白旗を上げるのか。日本人も考えておかなければならない時期に来ています。
大東亜戦争敗戦75年。一番いけないことは戦争に負けたこと。戦争を起こさなければ負けもなかったのですが、ハルノートを受け入れていたらどうなっていたか。今の亜細亜がこの形で存在したでしょうか、日本はどうなっていたでしょうか。それを分析せずに、一番大切な今の国際状況から日本の将来を予見せずに、コロナで人が死ぬことで大騒ぎしているのが大変不謹慎ですが可笑しく思えてしまいます。
そんなことよりもっと大きな人権蹂躙や政治的殺人が起こっているのにそれを知っている人たち、政治家やマスコミが無視し続けるのは何故でしょう。ジョヨボヨ王の予言の「白い衣をつけた黄色い人」の力が今の日本人にはありません、いつか日本人の正義感に再び火が付くことを願います。
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