藤井一中尉のこと。(3) お彼岸にて2

藤井中尉のことで不思議なご縁がありましたので記させていただきます。
お供えする花を中尉が仮住まいしていた深谷市で求めようと妻が時々行く花屋さんに一緒に行きました。私は初めてでしたが、藤井中尉の資料も持っていきました。対応に出たのは息子さんでしたが戦時中のことを聞くと御主人(お父さん)を呼んでくれました。私が藤井中尉のことを話し○○屋の○○さんの家に住んでいたのですが○○屋さんのこと ご存じないかと問うと同級生の○○君の家が昔○○屋だった記憶があるとその場で電話をしてくれました。
同級生といっても ご主人も昭和18年生まれです。

途中で電話を替わっていただくと正にそのかたの実家が下宿先でした。早速、翌日お墓参りの帰りにアポイントもなく寄らせていただくと、花屋さんの同級生の兄嫁さん(お兄さんはお亡くなりになったそうです)に お茶をいただいたうえ藤井中尉のお世話をしていた お義母さんの自叙伝 タイトル「有終の日々に生きて」(非買と聞きましたが3000円となっています)を お貸しいただきました。200頁のほとんどが御当家のお話ですがその中の5頁藤井中尉家族の部分以下に転載させていただきます。

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12特攻隊藤井肇中尉 一家の悲劇
年の瀬もせまったある日のこと○○さん(○○さんのお姉さん)より次のような手紙を頂きました。

「昭和六十年の朝日新聞に、戦時中は実に様々な記事 の差止め命令をされていたという例として、勝井中尉の事が出ていました。それで、私はこのまま埋もれさせてしまうのは、藤井一家が浮かばれないと思い、投書しました所 取り上げられた訳なのです。
記者の方から、この悲劇を埋もれさせてはならない、世に知らせなければならない、是非協力してほしいとの電話がありました。私は○○さんなら何から何までご存知なので、お許し頂きませんのに朝日の方に紹介申し上げました。何かと ご迷感をおかけすると存じますが、お許し下さい。」

二、三日して朝日新聞から私に電話があり、藤井中尉のことについて聞かせてほしいとの事ですが、電話ではとても話し切れません.一応お話ししましたが、四十年経った今日では今更の様に頭に痛くひびきお手紙差し上げる必要もないとは思いましたが、何となく物足りなさで後味が悪く筆を取りました。

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前略
あの痛ましい藤井中尉夫人の当時の話を聞いてあげてください。

戦争は日々激しくなって、三ヶ尻の飛行場には沢山の兵士達が来ましたが、宿舎に困り、空室のある家は軍人に貸すようにとの指令がありました。私どもにも奥座敷に八畳二間空いていましたので、町内会長の役柄率先して中尉に貸すことにしました。

中尉は○○県の農家の長男、奥さんは○○のサラリーマンの娘でした。四歳と二歳の娘さんがいました。戦争さえなければ平和な家庭が築かれていたのに、益々 戦争は激しくなりました。特攻隊員は日に日に数を憎し、敵陣目掛けて散って行きます。中尉も指を切り、日の丸に血書を書いて特攻隊に志願し、覚悟を決めていたとの事です。毎晩のように、奥さんは何とかして思いとどまる様申しましたが、覚悟は堅く堅く私が言う事など耳を貸しません。 と涙ながらに語りました。

その上、中尉は私の戦死の後は長男の嫁だから○○帰り、両親の面倒は勿論の事、農業もやる様にと申したそうです。戦争中の事もあってでしょうか、○○の方では畑に行くのに子供を紐で大黒柱に縛りつけて行くのだと悲痛の面持ちで私に語ります。それがどんなにか、農業もやった事のない奥さんには大きなショックを受けたのでしょう。

忘れもしない昭和十九年十二月十四日のあの頃は、北風が冷たく頬を刺す様な日でした。四時頃、余所行のねんねこ半纏を着て四歳の一子ちゃんの手を引いて お使いに行って来ますと出かけました。夜になっても奥座敷は真暗、そこに中尉が帰ってきました。

家内は何時頃に出掛けたでしょう、と聞きましたので四時頃と答えました。すぐに奥さんの実家に行きましたがいません。すぐ警察に捜索願いを出し、部下を連れて四方八方探しましたが見当らず、翌朝荒川の熊谷大橋の下流百米位のところに水死体となって見つかりました。一人はおんぶ、一子ちゃんは太い紐でお母さんと離れないように結わいつけであったそうです。砂だらけの遺体を毛布に包み帰って来ました。

私は三人の躯をお湯ですっかり綺麗にふいて着物を着替えさせてやリましたが、あまりにも哀れで涙もでませんでした。中尉は、しばらく遺体にすがっていましたが、すぐ後から行くからといいながら綺麗にお化粧して上げました。少しも病みませんので生きている様でした。 燈火管制の厳しい折でしたから、飛行場から毛布を沢山持って来て、八畳二間を燈の漏れない様に囲み、その晩隊長も来てお通夜をし、翌日火葬にしました。

両家の人たちと私の家族の者とだけでひっそりと火葬をすませました。三つの白木の箱を包む風呂敷を、私は三枚差し上げて包み、 ささやかに告別式を行い中尉は三つの遺骨を抱えて○○に帰りました。

 戦時中の事で誰もよく知らないのに、○○さんは若かったのによく覚えていて下さいました。もう、戦争はこりごりです。藤井中尉も特攻隊として武勲を立ててお国の為に散っていった事でしょう。
藤井中尉ご一家の冥福を祈り、世の中が情操豊かな明るい住み良い社会になる事を祈ってやみません。
終りに、朝日新聞社の益々の御発展を祈念いたします。

昭和六十年十二月
朝日新聞編集部 ○○様
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この手紙を新聞社に送りました後、編集部の○○様は二回私どもに見えられ三ヶ尻飛行場や熊谷大橋の現場も私と一緒にみてまいりました。
このような事件はたくさんあったでしょうが、戦時中は情報は全くありませんので埋もれて失ったのでしょう。
靖国神社のあの大鳥居をくぐると、ひとりでに身近な神々が頭に浮かび涙がとめどなく落ちました。
今はもう年老いて参拝もかないません。大勢の神々のお陰で日本も豊かになりましたが、この儘何年続くやらと老婆心ながら不安を感ずる今日此の頃です。
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「戦争はもうこりごりです」という言葉が重いです。単に自分の生活が苦しかったとか、身内が亡くなったとかだけでなく、他人の悲劇も経験した人は自らの事と捉えておられるのでしょう。私は駆逐艦ドレクスラーを沈めたのは藤井中尉の屠龍だと思っていますが ドレクスラーも死者158人出していて、皆家族がいたわけです。戦勝に勝者がいるのか。戦争の勝者とは悲しいかな面の皮の厚い戦勝/敗戦利得主義者だけなのです。

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