名寄へUターン
玄関前の大型灯油タンク
名寄(北海道)の家の外には大きな灯油タンクが設置されています。私の家は、写真のような青いドラム缶タイプで、灯油が500リットル近く入ります。このタンクから細い銅管を通って家の中のストーブに灯油が届きます。居間の煙突付き石油ストーブは強力で、すぐ暖かくなります。タンク内の灯油は、ストーブだけでなく、台所や風呂の給湯器にも供給されます。また、専用の装置によって2階にも灯油が引き上げられ、2階でもストーブを使うことができます。石油ストーブというと、灯油が無くなる度に小型ポンプでプカプカ吸い上げて補給する光景を思い浮かべるかもしれませんが、名寄(北海道)ではそんな手間はいりません。一見何気なく立っているこのタンクの威力は絶大です。
私の元教え子、神戸のS君によると、うちのような青いドラム缶タイプは今では珍しく、希少価値があるとのこと。家の改修の際、タンクを取り替えることも考えましたが、S君の助言や予算のこともあって思い止まりました。実際ネットで調べてみると、今販売されているのは、クリーム色の四角いものばかりです。名寄の街を歩いて見てみても、クリーム色の四角いタイプが圧倒的に多いです。しかし、たまに青いドラム缶タイプも見かけます。総じてうちのように老朽化した家に多いようです。名寄には希少価値のある灯油タンクがまだいくらか残されているということになります。
私の家には以前母が一人で住んでいたのですが、数年前から空き家になり、タンクも使われていませんでした。そこで、業者に頼んで中を洗浄してもらうことにしました。洗浄というのは、灯油を吸い出して濾過し、水や不純物を取り除いてもう一度タンク内に戻すことです。業者のお兄さんが専用の作業車でやって来ました。手際よく透明なホースで吸い取ると、中からサビ色の汚れがたくさん出て来ました。水もずいぶん混じっているそうです。このタイプのタンクはかなり旧式で、お兄さんによると、もしタンクに穴があいた場合、一晩で灯油が漏れ出してしまい、満タンの場合5万円近くが消えてしまうとのこと。お兄さんは、タンクを新しいのに替えるよう暗に勧めているようでした。
タンク内の灯油が少なくなると、電話で注文しなくても、契約している灯油屋さんが来て勝手に灯油を入れていってくれます。このあいだ出かけて家に帰ってみると、郵便受けに28,284円の納品書が入っていました。さあ、名寄で暮らし始めて、この灯油がどれぐらいもつものか、期待と不安が入り混じった気持ちです。あの青いタンクのある家、と目印にもなるこのタンクを、できるだけ長く使っていきたいです。
ゴミ出しの流儀
名寄の街を歩くと、家々の前に写真のような「ゴミステーション」があるのが目に入ります。ゴミ収集時に分かりやすいよう道路に面した側に設置されています。アパートなどの集合住宅では大きめのものを共同で使いますが、一戸建て住宅はだいたい各戸がそれぞれ備え付けています。決められた曜日に所定のポリ袋にゴミを入れて、決められた時間までにこの中に入れておくと、収集車が来て持っていってくれます。名寄に転居したばかりのとき、どの家にもゴミステーションが置いてあるのを見て、私もあわてて金物屋さんから購入しました。しかし、転入届を出した際に市役所でもらった「ごみ分別ガイドブック」を改めてよく見ると、ゴミステーション設置は必須ではなく、「カラス除けネットや箱」をかぶせるのでもいいことになっています。しかし、やはりカラスや風からゴミを守るには、このゴミステーションを使うのが万全で安心です。
名寄の街で見かけるゴミステーションには、いろいろな色や大きさのものがあります。ホームセンターで買ったか、街の金物屋さんで買ったかによる違いかもしれません。中には明らかに自作と思える愛情のこもったものも見られます。市販のものでは、私の家のより少し大きく細長いものもありますが、私はこの立方体に近い形が好きです。色もこの赤茶けた色がいいです。赤茶けたこの立方体は、一見小さいようで、40リットルの大きなゴミ袋のゴミもすっぽり入りますし、フタも本体も金属製でしっかりしています。写真を見た関西に住む元教え子Yさんによれば「鳥かごみたい」。確かにそのようにも見えます。飛んで行かないようパタンとふたを閉める、そのときの安心感はたまりません。
ところで話は変りますが、私は数年前に出張で半年間ほど台湾の台南市に滞在していました。台湾でも、ゴミは日本と同じようなゴミ収集車が集めに来ます。しかし、日本と異なるのは、作業員がゴミ袋を収集して回るのではなく、住民自らが収集車にゴミを投入する点です。決められた時間と決められた場所に、その地区の住民や店員さんがゴミを持って行き自分の手で収集車の後ろのグルグル回っている部分に投げ込むのです。飲食店の場合はゴミが多いせいか店員さんが手押し車のようなものに山ほどゴミを載せて運んで来ます。
私は台湾滞在の最初の頃、ゴミの出し方が分からなくてゴミをアパートの自室に貯め込んでいました。あるとき台湾人の知人からインターネット上に環境保護局がゴミ収集の場所と時間を公開していると聞き、見てみると確かに私が住んでいる近くの地点も載っていました。貯まったゴミを持って時間通りにその場所へ行ってみました。すでに何人かの人たちがゴミ袋やくずかごを持って集まって来ています。ゴミ収集車の流す音楽が聞こえたかと思うと、収集車が現れてそこに停止し、後ろのグルグルが回転し始めました。みんな先を争うようにそこを目がけて自分の持参したゴミを放り込みます。私も回りの人を真似て、貯め込んだゴミをえいやっと投げ込みました。やっとすっきりしたという安堵感と同時に、何かこれで台南市民になれたような小さな喜びを感じました。
ゴミの出し方の流儀を守るのが、その土地の住民の務めです。逆に言うと、ゴミをきちんと出せれば、その土地の住民になれたと言えるのかもしれません。台湾での経験から、私はそう考えるようになりました。
名寄に住むことになり、名寄ではやはり名寄のゴミ出しの流儀に従おうと決め、「ごみ分別ガイドブック」を詳しく読みました。そこで興味深かったことがいくつかあります。まず、「炭化ごみ」という呼び方は新鮮でした。難しいのは、「炭化ごみ」は「燃えるごみ」ではありません、と書いてあり、たとえば割りばしは「埋立ごみ」として出さなければならない点です。勝手に判断はできません。考えてみると「燃えるごみ」と「燃やせるごみ」でも微妙に意味が違いますし、地域の実情が大きく関わるようです。何でも燃えれば「炭化ごみ」と解釈されては困るということですね。さらに、ペットボトル・缶はつぶさないでそのままの形で出す、というのも名寄の流儀です。圧縮機での処理の都合といった理由がガイドブックには書かれています。前に住んでいた場所では、容積を減らすのがいいことと考えて必ずつぶしていましたが、これも改めなければなりません。ただ、実際にガイドブックに書かれていることを名寄市民がどれだけ守っているかは、機会があったら知りたいところです。
私は、名寄に転居して以来、本州や台湾に住む知人・友人に、名寄は夏が涼しく快適であること、冬は良質の雪の上でスキーができるといったことを頻繁にアピールし、名寄に来てうちに宿泊するよう声をかけています。それで、もしうちに泊まった場合には、ゴミ分別のルールもきっちり守ってもらいます。
大雪のせいでこうなる風景
雪が多いので街中が銀世界になる、雪が多いので春でも遠くの山が雪を頂いている。それは名寄の人にとっては当たり前で、そんなに有難味を感じない、特別目を向ける対象にならないことなのかもしれません。しかし、名寄へUターンした者にとっては、太陽の光を受けてきらきら光る雪の景色は、子供の頃もあったはずなのに、こんなにも美しかったのかと改めて感じさせられます。名寄の冬景色を見たことのない人には、是非一度見に来てもらいたいものです。
さて、美しい景色のことはさておき、「大雪のせいでこうなる風景」という題のもとで、もっと別のことを取り上げたいと思います。一つ目は上の写真の「矢羽根(やばね)」です。これは本州の人にも割と知られているかもしれませんね。市街地にはありませんが、名寄から下川(しもかわ)や美深(びふか)といった隣町へ行く道路では必ず見る、道の幅員がここまでですよと境目を下向きの矢印で示す標識のことです。矢印は地面からかなり上のところに付いていて、雪が積もったらその矢印をたよりに除雪車が走行します。一般車両もその矢印を見ながら運転すれば道からそれることはありません。また、夜にはこの矢印が発光して、並木のように現れ、夜のハンドル操作を楽にしてくれます。
この「矢羽根」は名寄(北海道)の風景の中に溶け込んでいる。先日、名寄の北国博物館で開催されている水彩画作品展で展示中の風景画を見たとき、複数の作品の中でこの「矢羽根」がはっきりと描かれているのを見て、私はそう感じました。自然の美しい景色を絵に描くのであれば、人工物の「矢羽根」を避けてキャンバスに景色を切り取ることも可能でしょうし、「矢羽根」を省略してしまうことも可能でしょう。しかしあえて「矢羽根」を描いていること、むしろ「矢羽根」を絵の中心に据えているとさえ思えるのは、この「矢羽根」が名寄(北海道)の人たちにとって、いかに身近で日々の生活と結びついたものであるかを示しています。
二つ目は停止線の標識です。停止線は普通、道路に直接書かれているものです。しかし、名寄(北海道)では、冬になると道路に雪が積もってそれが見えなくなってしまいます。そのとき威力を発揮するのが停止線の標識です。道路脇に立てられた「停止線」と書かれた標識がここに停止線があると示しています。ですから冬には横目で停止線の標識を見ながら、停止すべき位置の見当をつけてブレーキを踏むことになります。
名寄には自動車学校があり、冬には「雪道講習」を行っています。雪道の運転に慣れていない私のようなUターン者には是非とも必要な講習です。私も2時間の「雪道講習」を受けました。路上での教習では「急発進」「急ブレーキ」「急ハンドル」のような「急」の付く動作を避けるといったことのほかに、実際に停止線の標識のあるところで指導の先生からその存在を教えられ、停止線の標識に合わせて車を停止させる練習を行いました。
三つ目は、背伸びした消火栓です。「背伸びした消火栓」というのは私が勝手に付けた名称ですが、消火栓の背がとにかく高く、消火栓本体だけで170センチほどあります。それにさらに「消火栓」と書かれた丸いプレートを上に突き出して立ててあるので、これほど徹底すればいくら豪雪地帯でも消火栓の位置が雪に埋もれて分からなくなることはないだろうなあと感心します。
ここまで取り上げた「矢羽根」「停止線の標識」「背伸びした消火栓」のほかにも、名寄では、玄関入口を階段で高くしている住居など、大雪のせいでこうなると感じさせられる風景が数多く見られます。大雪のせいでこうなる風景は、名寄の街の中で夏にも冬にも存在しています。しかし、雪が降らない地方からやって来た人が特に夏に見ると、どうしてそうなっているのか理解できないことが多いかもしれません。想像力を働かせて、大雪のせいでこうなる風景の意味を考えてみるのも、雪国への旅行の意義と言えるでしょう。
そのマジック、書かさる?
名寄(北海道)で使われる方言で本州の人になじみのない表現に「~さる」というのがあります。もしかすると、名寄(北海道)の人も方言と気づいていないかもしれません。
私の愛読漫画『北海道民のオキテ』(原作:さとうまさ&もえ)で、留萌(るもい)出身の主人公もえがテレビのチャンネルを変えようとして、リモコンのボタンが「押ささんない」と言う場面があります。本州出身の夫まさが「押せないね」と言うと、押せないんじゃなくて「押ささんない」と、もえはむきになります。
「押せない」というのは可能表現(の否定)で、「押すことができない」という意味です。自分に原因があるにしても自分以外に原因があるにしても、押すという行為が実現できないことを表します。一方、「~さる」というのは、結果としてその状態になるという意味です。リモコンを押した状態になるのが「押ささる」、押した状態にならないのが「押ささらない」です。漫画では、自分は確かに押しているので「押せない」ではなく、リモコンの具合が悪くて押した状態にならないのだから「押ささんない」だと主人公もえは主張しているのです。本州出身の夫まさは、普段そんな使い分けをせず「押せない」で済ませているので、戸惑うしかありません。
表題の「そのマジック、書かさる?」というのは、書いて結果が表れるか、書いてインクが紙の上にのるかどうかをきいています。「~さる」を使わない本州の人なら「そのマジック、書ける?」と言うところですが、北海道人としては可能の「書ける」とはちょっと違う、結果として書いた状態になるという「書かさる」を用います。別の例では、「荷台に荷物が全部積まさる」「鏡餅の上にみかんが置かさる」のようなのがあります。積んだ状態になるのが「積まさる」、置いた状態になるのが「置かさる」です。
本州の人で「~さる」の使い方が理解しにくいという人は、「電話をかけられない」と「電話がかからない」の違いを考えてみるといいかもしれません。それなら違いが分かりますよね。「電話をかけられない」は自分に時間がないとか、ケータイを忘れたとかが原因で電話をかけるのが不可能であること、「電話がかからない」は、電話をかけているのに繋がらない、電話がかかった状態にならないという違いがあります。それと同じような違いを名寄(北海道)の人は「押せない」と「押ささらない」で言い分けていると考えれば分かりやすいでしょう。
「電話をかける」と「電話がかかる」は、他動詞「かける」と自動詞「かかる」の使い分けです。今まで「~さる」の例で挙げた「押ささる」「書かさる」「積まさる」「置かさる」の「押す」「書く」「積む」「置く」は他動詞ですが、対応する自動詞がありません。そこで、それを補う意味で「~さる」を使って自動詞的な意味を表しているとみることもできます。他動詞を用いた「電話をかける」に対しては、自動詞を用いた「電話がかかる」が存在するので、名寄(北海道)の人も「電話がかからない」を「~さる」表現で言うことは少ないのではないかと思います。
「~さる」は、「思わず笑わさる」「つい悪口が言わさる」「泣かさるねえ」の「笑う」「言う」「泣く」のような自動詞にも付きます。「~さる」が結果としてそうなるということを表している点では、これまで挙げた例と共通しています。
また、動詞の活用の点から興味深いのは「食べらさる」「見らさる」のように、一段活用の「食べる」「見る」といった動詞も五段活用と同じ活用をするという点です。漫画の中で主人公もえも確かに「食べらさった」と言っています。
方言には標準語で表せないことを表せる言い方があって、表現の豊かさを生み出しています。「~さる」もその一例です。「~さる」は、研究者の方にとって面白い問題だと思います。夏休み等を利用して是非名寄に調査にお越しください。新しい発見がきっとありますよ。学生の皆さんも避暑を兼ねて、ゼミ旅行とか調査旅行で名寄を訪ねて、この「~さる」の使い方を調べてみませんか。
初めての雪囲い
10月下旬になると名寄では樹木の雪囲いが始まります。市の公園をはじめ一般住戸の庭でも、これから降り積もる雪に備えて、枝が雪で折れてしまわないように、丸太とロープを使って樹木や植込みを囲います。上の写真は名寄市内の浅江島(あさえじま)公園で撮ったものです。専門の職員の手によるものでしょう、丸太の長さや全体の形もきっちり計算され、きれいにできあがっています。街の中の一般家庭ならこうはいきません。長さも太さもばらばらの丸太を立てかけてくくっただけの大雑把な雪囲いをよく見かけます。
雪囲いというと、金沢の兼六園の雪つりが有名ですが、兼六園の雪つりは多くの本数の縄で上から枝を吊り上げるもので、繊細でそれ自体が鑑賞に堪えるものです。名寄の雪囲いは兼六園のとはずいぶん異なり、見た目より有効性を重視して、雪から木を守ることをもっぱら考えているようです。
ところで、上のような写真を本州の知人に見せると、決まって次のような反応があります。こんなに隙間があって雪が入ってこないのですかと。そういう反応に接すると、やはり年に一回か二回しか雪が降らなくて、降ってもすぐ融けてしまう地域の人にとって名寄の雪の量は想像がつかないのだろうなと思います。冬にはこの雪囲いの高さをはるかに超える雪が積もります。それがずっしりと重い布団のように植込みにのしかかります。雪は空から降ってくるときは軽い小さな粒ですが、降り積もると重い大きなかたまりになります。その加重から植込みを守るとなれば、写真のような丸太の構造が適していることが理解できるのではないでしょうか。
ナナカマドや白樺は冬を迎える前に葉をすっかり落としてしまい、雪囲いをしてあるのを見たことがありません。庭や公園に植えてある葉の落ちない松の仲間、特に枝振りのいいものが雪囲いの対象となります。私の家の庭にも雪囲いの必要な樹木が何本かあります。しかし、私は長い間名寄を離れていて、今まで一度も雪囲いの作業をしたことがありません。名寄の街を歩くとどこの家でも庭の木の雪囲いをもう終えています。10月末に旭川の常磐(ときわ)公園で見た雪囲いは、低い植込みを荒縄でぐるりとくくるだけのものでした。ははあ、くくるだけでもいいのかと知り、コンビニで買ってきた荷造り用のロープで、枝が広がらないようにくくる作業をしました。それでもあと一本、背の高さほどのイチイの木が残っています。なんとかしなければと思っているうちに、大雪が降ってイチイの木は雪に埋もれてしまいました。出遅れたことを後悔しましたが、そのうち天気のいい日が何日か続いて雪も少し融け、イチイの木を掘り出せる状態になりました。車庫の中にあった材木を物色すると、長さがちょうどよさそうな板が何枚かあったので、それでイチイの木を囲むように立て掛けて、コンビニのロープをかけ2周ほどぐるりと回しました。不格好ですが、雪が積もっても枝がぐにゃりと曲がってしまわない対策はできたと一安心です。
冬を迎える準備というと、私の子供の頃はどこの家でも大根を軒先に干して、漬物作りをしていた記憶がありますが、今はそのような光景をほとんど見かけなくなりました。季節を感じる風物として雪囲いを残していくためにも、来年はもう少し早めに準備を始めて、今年よりは格好よく庭の樹木を囲ってやりたいと思います。
雪はねの毎日
「雪はね」というのは「雪かき」のこと。名寄(北海道)では、普通「雪かき」と言わずに「雪はね」と言います。降雪量が多く、スコップ(ショベル)ではね上げる必要があり、かき寄せるというイメージの「雪かき」のように生やさしいものでない、という気持ちがありそうです。私も本州の知人と話すときは「雪かき」と言いますが、やはり「雪はね」と言った方がしっくりします。「あの家の前はいつもきれいにはねてある」と言えば意味が理解できますが、「あの家の前はいつもきれいにかいてある」では何のことか分かりませんものね。
さて、名寄にUターンして、雪はねの毎日が始まりました。雪が降り積もった朝は午前3時頃には市の除雪車が出動して道路の除雪をします。道路の除雪というのは、道路上の雪を脇に押しやることなので、家の前の道を除雪車が通った後には、家の出入り口の部分に雪の山脈(上の写真)ができます。降った雪の量によってその山脈の高さは20センチのこともあれば60センチのこともあります。まず、その山脈を突き崩さないことには家への出入りができません。車で出勤する人は、早朝、車が通れるぐらいの幅に山脈を取り除き、それから勤め先へ出発することになります。
雪はねには、通常上の写真のような「スノーダンプ」が使われます。名寄(北海道)では一家に一台必ずあると言ってもいいくらい普及しています。スノーダンプの操作は簡単です。足を踏ん張って押すだけです。一回で運ぶことのできる雪の量はスコップに比べかなり多いです。雪の日にはスノーダンプを押して雪はねをしている住民の姿が街のあちこちで見られます。
スノーダンプを使う人力作戦のほかに、除雪機を使う動力作戦もあります。私が子供の頃は家庭で除雪機を所有するなんて考えられませんでしたが、最近は除雪機を備えた家庭が珍しくなくなりました。私は除雪機を使ったことがないので分からないのですが、体力的にはかなり楽だと思います。ただ、見た感じでは、雪を一定方向に吹き飛ばすだけなので、人力作戦派の私としては、スコップやスノーダンプに比べて小回りがききにくいのではないかと思います。例えば特定の箇所の雪を別の特定の箇所に移したりする場合などにはやはりスコップやスノーダンプが活躍します。
私は名寄へUターンする前、神戸に20年以上住んでいましたので、雪はねの毎日は久しぶりです。瀬戸内海に面する神戸は、冬でも雪がなく太陽が輝いていて、そんな日は、日本海側でたくさん雪が降ったおかげと感謝しました。雪はねの大変さは知っていましたので、冬に雪が降らず雪はねする必要がなくて、冬でも自転車に乗れる生活は贅沢というか、雪国に対して不公平ではないかという感情もうっすら抱いていました。それが今度は、雪はねのある毎日を自分から選ぶことになりました。
知っていたつもりでも実際にやってみると大変です。大雪が降った日には雪はねばかりやっている感覚になります。腰を痛めないよう注意しなければならないのはもちろんですが、スコップの柄を握り締めるせいか、一日中雪はねをやった次の日には、手の指に筋肉痛のような疲れが残ります。手がカサカサになって、スマホの指紋認証がきかなくなりました。
さて、大雪の日になぜ一日中雪はねをするのかというと、雪はねの箇所は玄関前だけではないからです。屋根の上にも当然雪が降るので、それが落ちてうずたかく積み上がります。放っておくと窓を傷めることになるので、家の外周も雪をどけてやらなければなりません。屋根の雪は自然に落ちてくることも多いですが、気温の関係で落ちてこず、積もったままの場合、屋根の雪下ろしもしなければなりません(私は怖いので屋根には上がりません)。それから当然雪は時間を選ばず降るので、朝雪はねをしても夕方にはまた同じくらいの雪が積もっていることも珍しくありません。それやこれやで雪と格闘しているうちに時間はすぐ過ぎていきます。気がつくと今日は一日中雪はねをやっていたなあ、ということになります。
まだ体が動くうちはいいですが、一人暮らしの高齢者には雪はねや雪下ろしは難しいです。そういう場合、費用を負担して作業を依頼することになります。名寄市では高齢者支援として除雪助成券や屋根雪おろし助成券を交付しているようです。一案ですが、雪のない地方の若者に来てもらって雪はねをボランティアで体験してもらうのもいいかもしれません。最初は珍しさもあって楽しくても、だんだんきつさが分かってきて一日でやめたくなるという心配はありますが、今の若者は結構やってくれるかもしれません。
雪はねは確かに大変ですが、雪国では誰もがやっていること。この頃、私は雪はねに楽しみを見いだそう、この労力を形あるものに残そうと思い始めました。そう思って、家の横の雪捨て場となる場所に雪の滑り台を作り始めました。私の父が生前孫のためにかまくらを作ってくれたことも頭に残っています。雪と親しむ工夫は昔から雪像作り等でなされてきましたが、自分なりの雪との親しみ方を考えていきたいです。
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