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あれから10年

東日本大震災から10年を迎えました。この機会に当時(2011年3月11日)から現在(2021年3月11日)までの10年間を振り返りたいと思います。

投稿者:遠藤孝行(29)
株式会社アウレ 代表取締役、株式会社オーダーメイドジャパン 取締役、株式会社フレックス 社外役員、国際アート&デザイン大学校 非常勤講師、テックアカデミー メンター

2011年(震災当時)

埼玉大学 経済学部の1年生でした。福島県福島市の出身ですが、当時は田舎が嫌すぎて、かつ東京にいく勇気もなかったので、あいだをとって埼玉県の大学に通っていました。小さい頃から人と話すことが苦手で、地震が起きた日はバイトで貯めたお金をはたいて購入したバイクに乗り、ひとり埼玉県の大宮に買い物にきたところでした。地震が発生したのは大宮駅前のビル内にある古着屋さんに向かってちょうどエスカレーターで登っているところでした。

最初は揺れがあまりにも大きかったため、ビルごと揺らすという壮大なドッキリだと思い込んでいました。しかし、なかなか揺れがおさまらず天井から照明が落ちてきた時に"これはやばい"と思い急いでビルから出て、当時ビッグスクーターに乗っていましたが渋滞の合間を縫って家まで急ぎました。信号で止まるたびに余震を感じていたのを覚えています。

次の日にバイト先の吉野家に行くと、店内での食事提供はせずにテイクアウトのみの対応という臨時オペレーションになっていたり、当時大学のハンドボール部に所属しておりましたが、帰り道に計画停電で真っ暗な中、自転車をこいで帰っていたのを鮮明に覚えています。

スーパーからインスタント食品がなくなったり、ガソリンスタンドに長蛇の列が並んでいたり、今まで見たことのない光景を目の当たりにして、自分の心配しかしていませんでした。また、その当時はニュースもほぼ見ていなかったため、"福島やばそうだなー"ぐらいしか思っておりませんでした。

2012年(成人式)

震災の年の11月に無事成人になり、震災の年が明けてすぐ成人式がありました。久しぶりに実家(福島市)に帰って避難者の方々の仮設住宅が並んでいたり、よく使っていた地元の公園に放射能測定機が設置されていたり、震災後の地元の話を親や友達から聞いているうちに今後一切福島に帰ってくることはないなと思いました。

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成人式の写真(一番左)

ちょうどこの頃、東京にて野村證券OBの方の指導のもと株式投資について勉強する学生団体(いま聞くとかなり怪しいw)に所属し株式投資(日経225 先物取引)をはじめました。最初は教えに忠実にトレードをはじめ1ヶ月で50万円稼いだ月もありましたが、独学でも猛勉強をして調子に乗ったのか、教えに反してトレードをするようになり、3ヶ月で100万円を失いました。

2013年(カナダ留学)

コミュニケーションが苦手な自分が嫌で、このまま社会人になったらまずいという危機感からカナダ留学への語学留学を決めていました。株式トレードは単にお金稼ぎをしたいというよりもカナダへの留学費用を稼ぐために始めました。そして自分の過ちにより失ったお金ではありますが、どうしても留学にいきたく、一番上の姉(13歳上)に泣きながら土下座をしてお金を借り(現在は返済済)、カナダに行くことができました。

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カナダでお世話になった方々との写真

そして、そのカナダ留学のなか震災から2年目の3月11日を迎えました。日本から遠く離れたカナダの地においてもFukushimaという地名を知らない人はおらず、テレビでも幾度となく原発事故の映像が流れておりました。

日本を離れて故郷を恋しく思ったのか、この年の3月11日に福島の情報を自ら取りに行くようになりました。様々な写真や動画を拝見するうちに震災時に何もしなかった自分への怒り後悔が増していきました。この時から徐々に福島に対する見方が変化していきました。

2014年(韓国留学)

留学で得た経験や成長の実感が大きすぎて大学在学中にもう一度留学することを決めていました。そして、バイト三昧の日々を過ごしてお金をためて韓国の大学(Korea University 고려대학교)へ交換留学に行くことにしました。(朝から夕方前まで中野で寿司のデリバリー、夕方から早朝にかけて新宿のホテルのフロント業務や六本木のクラブでバイトなど、休憩時間ぐらいしか寝る時間がなく本当にバイト三昧でした...)

就職先がIT業界に決まっていたため、留学先の大学では専攻のファイナンスの他にITの授業もとっていました。また、学校外では日中韓の仲の良い3人組でラジオ(Podcast)を放送したり、日中韓の関係改善のためソウル市内でフリーハグを行ったりと、精神的にも鍛えられる経験をすることが出来ました。

ソウル市内でのフリーハグ

この頃にいま猪苗代町で一緒に活動している佐川さんとも出会いました。当時、佐川さんがソウルで初の福島県人会を立ち上げて、その1回目の集まりに参加させていただきました。ちなみに下記は佐川さんのクラウドファンディングの記事です。皆様、ぜひご支援をお願いします!

2015年(社会人1年目)

留学で卒業が1年遅れ、さらに単位が足りずで半年遅れ、合計1年半遅くなりましたが無事大学を卒業しシアトルコンサルティング株式会社というSIerに就職が決まりました。とても尊敬をしている三木谷さんの会社である楽天からも内定を頂いていましたが、より挑戦できる環境があると思いベンチャー企業を選びました。しかし、入社してすぐ楽天への出向が決まり、会社を辞めるまでの約1年弱は結局楽天におりましたw

楽天では大規模なシステムを運営しているため、新卒の私に任されることはごく一部でしたが、グローバルなエンジニアチームでの業務体験や、定時に仕事をあがれたので勤務後に勉強会に参加することが出来たりと、いま思うと本当に恵まれた環境で仕事をさせて頂いていたなと思います。

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特に仲良かった楽天メンバーとのお別れ会

2016年(1度目の起業)

そして、震災から5年が経った2016年に地元である福島に戻り一般社団法人福島ブースターを設立しました。カナダ留学の時からいつかは生まれ育った福島に恩返しをしたいと思っていましたが、当時24歳というタイミングで本当に福島に戻ってよいのかとても迷いました。もっとスキルを磨き、経験をつむためにシンガポールでの転職先も探していましたが、ずっとモヤモヤしていた震災後の後悔をすぐにでも晴らしたいと思い福島に帰ることに決めました。

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渋谷で行われた起業家イベント

何不自由なく育ってきた僕とは違い、やりたいことが制限され震災後自由に外で遊ぶことができなかった子どもたちのために何か役に立ちたいと思いプログラミング教育の事業を開始しました。初めてのチラシを作り、住宅街の家一軒一軒にチラシをポスティングして回りましたが全く人が集まらず、何とか知り合いづてでお呼ばれして出張プログラミング講座などを行っておりましたが、教育事業だけでは生活できるほどのお金は稼ぐことが出来ませんでした。そこで地方でも需要がありそうなホームページ制作も事業として開始しました。

2017年(猪苗代町への移住)

そんなギリギリの状態で事業を行っている最中、知人づてで猪苗代町の廃校利活用プロジェクトのお誘いがありました。10数年以上に廃校になった校舎を行政・民間企業・地元NPOと一緒に作り上げていくというプロジェクトで、行政と一緒にプロジェクトをしたことがない僕にとっては未知の世界でした。

ただし、起業して間もなく実績のないなかご相談いただき、何としてもやり抜きたいと思いお話を受けることを決め、2017年4月から自分の事業を行いながらも猪苗代町地域おこし協力隊として着任することになりました。

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2020年にリニューアルオープンした廃校(Roots猪苗代

様々な経緯がありましたが本当に色々な方々のお力添えとめぐり合わせによって、素晴らしい形でこのプロジェクトは2020年にリリースとなりました。

2018年(クラウドファンディング)

福島県の出身ではありましたが猪苗代町に移住してきて、北には磐梯山、南には猪苗代湖、四季折々の表情があり、温泉もある。東京では全く意識することのない生態系。こんなに恵まれた場所が福島県にあることを初めて知りました。豊かな自然環境があるからか、主体的な方々とても多く、この福島県の中でもこのエリアで活動していきたいと思うようになりました。そして、教育事業を本格的にスタートするためにも2018年の冬にクラウドファンディングを実施しました。

東京でお世話になった方々や地域内でお世話になっている方々など、本当に多くの方からご支援をいただき、集まりいなという子どもたちのサードプレイスを開始することが出来ました。

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集まりいなオープニング記念イベント YouTuber Academyより

2019年(2度目の起業)

そして、猪苗代町での2年間を過ごし2019年7月1日付けで株式会社アウレを設立しました。アウレ(AWRE)は、「Awaken Resource」の略で。眠った資源を覚醒するという意味があります。資源とは、この地域の豊富な自然だけでなく、子どもから大人までを含んだ人的資源、空き地・空き店舗・空き施設、その地域の歴史、文化なども含みます。初期メンバーは5名。全員20代でとてもユニークなメンバーが揃いました。

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5人での集合写真

2020年(社外役員・非常勤講師)

2020年にはご縁に恵まれ株式会社フレックスにて社外役員に、国際アート&デザイン大学校にて非常勤講師に就任しました。

2021年(取締役)

そして震災10年目の2021年には株式会社オーダーメイドジャパンにて取締役に就任しました。福島ブースターを起業した当時からの友達で、同じ志を持つ同志の中野くんからのお誘いで、震災10年目のタイミングで一緒にお仕事をさせてもらうことになったことは、とても感慨深く思っています。

2020年、2021年と役割が増えてきましたが、福島の発展に寄与するお仕事だと思っています。いま自分が持てる力を最大限に発揮して今後も何らかの形で福島に恩返しをしていきたいと思います。

さあ行動だ!

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