自#617「校舎改築というのは、あれはやっぱり嫌な物だなと、教師なった頃、先輩に聞かされました。その真実をリタイア直前になって、やっとはっきりと理解しました」

     「たかやん自由ノート617」(ゴシック式⑦)

 調布市のJ高校で、11年間、勤めました。11年間も同じ学校にいたのは、居心地が良かったからです。ただ、改築工事が始まってからは、空間的には、居心地が悪くなりました。若い頃、土木事務所に勤めていて、地元にお金を落とすために(つまり経済を回すために)日本の美しい自然を次々と壊して行くかのように、コンクリートの塊を、そこらにどんどんぶち込んで行く工事の片棒を担いでいた訳ですから、教職生活の晩年になって、改築工事で、どんどん居心地が悪くなって行くなどと、嘆く権利も資格もないだろうと、理解していました。まあ、運命のようなものです。
 校舎は、まだ普通に使えました。校舎の敷地には、国木田独歩が、武蔵野の南限だと言っていた武蔵野の杜が、きちんと残っていました。地形的に言えば、丘の上の台地に校舎は建っていました。3.11の大地震の時、丘のふもとの小学校の先生が、丘の上の学校(つまりJ高校)が、大きく揺れるのが、はっきりと見て取れたと言ってました。
 3.11の地震の時、職員室の壁にひびが入りました。グランドに9個、備えつけてあった放送スピーカーの7個が、おそらく地震の影響で、配線がズレて、鳴らなくなりました。校舎のあちこちの雨漏りは3.11以降、さらにハデになったかもとも思いました。特に体育館ステージの上手の袖口あたりの雨漏りがひどく、文化祭本番で、いよいよどしゃぶりになったら、そこに設置してあるPA機器と照明卓などは、すべて完全防水して、音も照明も止めるしかないと覚悟していました。PAは、通常の100Vの電源ですが、照明は200Vを使用しています。100Vですと、高校生は感電しても、普通は、びりっと来る程度ですが、200Vだと、悪くすると命取りになります。
 まあしかし、イベントを実施する以上、大なり小なり、何らかのリスクは絶対にあります。柔道やラグビーなどの大会だって、最悪、生徒が事故で死ぬかもしれないというリスクを抱えて実施している筈です。
 雨漏りしていたら、百均で買って来たバケツを置けばいいんです。実際、激しい雨の日は、校舎の三階の廊下のあちこちにバケツを置いていました。校舎内の放送施設も相当、ガタが来ていて、時々、ヘンなノイズが入りました。子供の頃、ラジオで北京放送が流れているのを聞きましたが、これ北京放送か(?)といった風な正体不明の声が、突然、放送室のモニターから聞こえたりしていました。
 私が、部活で使用していた地学室には、アップライトピアノが置かれていました。かつて、合唱が盛んだった頃(昭和30年代くらいだと思いますが)、校舎内の廊下のあちこちに、アップライトピアノが置かれていて、生徒たちは、休み時間や昼休み、放課後などに、アップライトピアノの周りに集まって、誰かが伴奏をして、自由に歌を歌っていたそうです。古き良き時代の昔話です。その廊下に置かれていたアップライトピアノの一台が、地学室の片隅に、ひっそりと生き残っていたわけです。
 そのピアノの高音は、安物の金属を叩いたような、表情のない音でした。低音の音程は、むちゃくちゃでした。調律師さんが、音楽室のピアノの調律に来た時、ほんのついでの間に合わせ程度に、調律してくれるんですが、音色は、一向に改善されません。調律師さんと一緒に、ピアノの蓋を開けて、中を見てみたんですが、鍵を打つハンマーが、もうボロボロでした。医者が末期癌の患者のオペをしようとしてメスを入れ、患部付近の手の施しようがない状態を確認して、すぐに縫合してしまうかのように、調律師さんもすぐに諦めて蓋を閉めていたわけです。が、まあこの高音が、のっぺりとしたキンキンで、低音はぐちゃぐちゃのピアノも、中音域はそこそこ鳴りますし、少なくとも、私の部活の生徒たちは、ボロボロのピアノでenjoyしていました。
 高村光太郎の詩に、ぼろぼろな駝鳥をフューチャリングした作品があります。腐っても鯛、ぼろぼろな駝鳥だって、アフリカの瑠璃色の風をきちんと感じさせてくれるんです。ボロボロのピアノだって、音楽の好きな若者が集えば、fantasticな音色を聞かせてくれます。二十世紀の初めのホンキートンクピアノだって、チューニングは、むちゃくちゃだったのに、オーディエンスをpowerfulな演奏とラグタイムで、魅了していた筈です。
 校門のすぐ傍に八重桜がありました。入学式の頃、ちょうど満開でした。中庭にこぶしの大樹が何本かありました。こぶしのまっ白い花が咲くと、卒業式も間近でした。文化祭が終わった頃、敷地内に沢山あった金木犀が一斉に花開いて、その匂いが、秋たけなわの時期を感じさせてくれました。グランドの東側と北側に、銀杏が植えられていて、暑い季節の頃、自然な木陰を拵えてくれていました。銀杏は、グランド以外の敷地内のあちこちにあって、銀杏以外の落葉樹も沢山あったので、毎年、落ち葉の頃は、部活系の生徒が、落ち葉の掃除をしていました。初冬の風物詩のようなものでした。
 改築工事が始まって、学校の敷地内の樹木は、ほとんど伐採されました。ほとんど伐採して、更地にした方が、校舎改築のためには便利なんだろうと想像できます。が、まあ、武蔵野の杜が、そっくり一個、消滅してしまったわけです。そこは、やはり複雑な思いがします。
 私が最も愛していたのは、旧校舎の地学室です。地学室にあった、ボロボロのアップライトピアノは新校舎の第三講義室に運び込みました。あのボロボロだけが、地学室の生き残りです。生き残りを運び込んだということは、つまり第三講義室が、地学室だという「てい」なんですが、現実は、やっぱり無理がありすぎます。
 旧校舎の地学室は、特別な空間でした。まず、教室のサイズが通常の普通教室とも、特別教室とも違っていました。廊下一個分の横幅が付け足されています。なおかつ床が石でした。窓は教室の北側と南側にあり、そこは当然、ガラスです。壁は土。天井もしっくいのようなものを塗っていました。この学校の施設とは思えないようなヘンな空間の音の響きは最高でした。バンドのライブを実施するために、わざわざ拵えたハコじゃないかとすら思えるexcellentな空間でした。
 残念ながら、このexcellentな空間は、2年前に消滅してしまいました。消滅する時(土曜日の午後でした)、私は学校の外の道路に立って、消滅の様子をwatchingしていました。パワーシャベルで突き崩して行くんですが、ものの30分足らずで、あとかたなく消滅してしまいました。半世紀やそこらの歴史を刻んで来たであろう地学室が、いとも簡単に、あっけなく消えてしまって、盛者必衰の理を、改めて感じてしまいました。
 12、3世紀に建設したゴシックの大聖堂は、今だに普通に礼拝堂として、使っていたりします。今から700年とか800年の昔の建物を、普通に使えるとかって、すごすぎます。ロンドンやパリには、築300年、400年とかの建物は、いくらでもあります。経済を回すために、Scrap & Buildを繰り返すという愚を、ヨーロッパの都市のブルジョワたちは、犯してません。使い勝手が悪くても、不便でも、古いものを大切にしています。歴史や伝統、エスタブリッシュされたものを、きちんとリスペスクトするという姿勢、努力が、日本人には足りないと指摘されても、反論できないような気がします。

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