自#406「完璧を求めない、ざっくりアバウトでいいってことは、世の中にどっさりあります。詰め切られると、相手も困ります。自分にとっても、相手にとっても、逃げ道は必要です」

          「たかやん自由ノート406」

「転換期を生きるきみたちへ」の本の中で、内田樹さんは「身体に訊く」というテーマで中高生にメッセージをお書きになっています。中高生というのは、中学1年生から高校3年生までの生徒たちのことです。都立にも中高一貫校はあります。始業式や終業式では、校長先生は、6つの学年の生徒たちに、お話をされるんだと思いますが、一体、どんな話を、どういう語り口でされるのか、興味があります。中学生は、熱心にlisten to してくれるのに、高校生になると、sakuっとスルーされるテーマもあります。「嘘をつかない」とか、「人に迷惑をかけない」と云った分かりきったありふれたテーマは、人の人生には、嘘をつかなければいけない時もあるし、人は人に迷惑をかけながら生きて行くものだという真実を、ある程度、知るようになれば、立ちどころに説得力を失います。高2、高3に道徳や倫理を語って聞かせることは、難しいです。これは、私も高3の倫理を何年か、教えましたから、身にしみて痛感しています。中学生にイジメはNGだと、強く訴えかけるとしても、「だからと言って、あなたはイジメの現場の中にいるわけでじゃないし、何かを具体的にしてくれるわけでもなく、安全なとこから、ただ建て前として、今、そこで喋っているだけでしょう?」と、これまたスルーされてしまいそうです。中高生のすべてに語って聞かせられるテーマを選ぶことだけでも、大変な苦労をしそうです。ですから、私のこのnoteは、中高生の読者は、想定してません。中高生には、まだ語ってはいけないテーマがあります。世の中は、善悪込み込みですが、その善悪込み込みを、中1~高2までの生徒に語るのは、大人としての良識に欠ける行為だと、私は考えています。高3でしたら、語りにくいリアルを、ちょいちょいちりばめることも可能です。マグナムの写真集やライフを教室に持ち込んで、戦争のリアルを(といっても、私も戦争を知らない世代ですから、所詮、リアルみたいなものって感じですが)高3生になら伝えられます。高3は、もうかなり大人です。高3の授業が、一番、やり易いです。

 内田さんは、生き物には「できるだけよけいな情報を採り入れない」という機能が、初期設定されていると仰っています。豹柄の服を着た、大阪のおばちゃんたちのお喋りを、心斎橋のスタバの傍の席で、耳をそばだてて聞いていると、「よけいな情報だらけ」って気もしますが、まああれは、決して互いにlisten toしているわけではなく、取り敢えず、しゃべりっぱの口と喉と声帯のエクササイズのようなものなんだろうと、推定できます。

 人の基本のモードは「人の話を聞かない」です。私も過去に何回か、生徒指導部に所属し、生徒指導というものを、多少はして来たわけですが、説教をしたことはないです。私自身、中高時代、先生の説教は、すべて悉く(全部です)スルーして来ました。自分がスルーして来たのに、説教をしたら、それは嘘だし偽善です。この時間、〇〇くんの生徒指導をお願いしますと言われたら、生徒が待機している部屋に出向いて行って、顔をぱっと見て、聞いてくれそうな世間話をします。アニメや映画とかの話が多いです。最後の締めは、だいたい音楽。chanceあったら、〇〇の曲、聞いてみて、みたい感じで、だいたい一方的に喋りまくって、それで終了です。心斎橋の豹柄のおばちゃんと同じか、それよりちょっといいかもです。どうでもいい世間話の方が、生徒は聞いてくれますし、興味がない話題でも、どうでもいい話は、さほど苦痛ではないんです。
「どうして、ウーバーで出前を取ったんだ?」
「生徒が教室から出前を頼んでもいいと思っているのか?」
「パイ投げは、資源の無駄遣いだから、SDG's的にもやっちゃいかんだろう」などと、生徒が答えられないような詰問はしません。喫煙の場合だと、多くの先生は
「タバコを吸っていいと思っているのか?」と、生徒に詰め寄りますが「吸っていいと思ってます」と、生徒が答えられる筈がないです。「いけないと思います」と素直に返事をすると「じゃあ、なぜ、吸ったんだ」と、追い込んで来ます。茶番です。何故なのか判らないけど、生徒は吸ってしまうんです。青春の疾風怒濤時代の生徒の葛藤や闇に寄り添ってあげて、できる限り理解してあげようと努力することが、教師の役目です。

 内田先生は、ある時、兵庫の県立高校の講演に呼ばれます。その高校の生徒1500人が、体育館に集められて、パイプ椅子に座っていたそうです。通常の都立高校は、各学年7クラス編成で、全校生徒は800人くらいです。都立高校のどの学校の体育館も、800人分のパイプ椅子を並べることは、広さが足りなくてできません。全校生徒が集まる時は、スタンディングか体育座りです。体育座りよりは、正座の方が、身体にためには望ましいんですが、今どきの高校生は、畳の上で正座をすることすらできません。ましてや、体育館のフローリングをやって感じです。1500人と言うのは、もしかしたら内田先生の勘違いかもって気もします。1500人だと、都立高校の体育館の2.5倍くらいの広さがないと、パイプ椅子は並びません。その大きさの体育館を想像することも、正直、できません。が、現実に高校生がその場に1500人いるとして、その1500人に話を聞かせるのは、ラクダが針の穴を通るより難しそうな気がします。

 講演が始まる前に、司会の先生が「これから君たちのためになる話を、内田先生がされるから、注意して聴くように」というアナウンスがあったそうです。そんなためになる話とか、ぜってえ、聴きたくねぇと、まあ、私なら普通に思います。学校には、どうしようもなくツマラナイことが、いっぱいあって、講演や授業が、超絶ツマラナクて、だから部活や行事が楽しいってとこもありますから、内田先生の話を、生徒が聞かなくても、学校運営的には別段、支障はないのかもしれませんが、内田先生は、ご自身が勤めている大学(神戸女学院)のPRも兼ねて、出向いているわけでしょうから、ここはやはり、身体を張って聴かせる必要があります。
 内田先生は、「この体育館は気の通りがいいですね」と、開口一番、高校生にとって、イミフなセリフを投げかけます。興味を持ってくれそうなイミフです。日銀の公定歩合の話とか(あっ、公定歩合は、取り敢えず、今はないそうです)、オープンマーケットオペレーションと云った感じのイミフは、スルーされます。が、「気の通り」と言われると、注目せざるを得ない気がします。何故、気の通りがいいのか、その理由が知りたいし、そもそも、「What's 気?」という素朴な疑問も持っています。内田先生は「校門の前に道を横切って小川が流れてますね。あれが南で風水で言うと朱雀。東西の尾根の東が青龍で、西が白虎。学校の後ろの小さい山、これが玄武」と、滔々とまくしたてます。この話の風水が、正しいかどうか判りませんが、そんなことは、どうでもいいんです。これがつかみです。理論的に詰め切ったつかみなど不要です。朱雀、青龍、白虎、玄武の生徒がゲームやマンガで知ってそうな言葉で、高校生がlisten to する流れを作り上げて行きます。オープニングでつかめば、半分くらいまでは持って行けます。半分で充分です。完璧を目指す必要など、まったくないです。つかみの大切さを、あらためて思い知らされたような気がしました。

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