自#459「人を信じて、だまされたとしても、別段、被害がなければ、それもありかなで、いいような気がします。だまされないように、強い猜疑心を持ったりすると、そのことが、逆に、自分のメンタルに被害を及ぼすストレスになってしまいます」

          「たかやん自由ノート459」

 ヴィニキウスは、リギアを探し出すために、キロンキロニデスという自称ストア派哲学者のギリシア人に、調査を依頼します。キロンは、裏社会の人間です。モーセの十戒の中には、宗教的な戒律以外に、父母を敬う、殺してはいけない、姦淫してはならない、盗んではいけない、偽証してはいけない・・・等々のごく当たり前の一般的な決まりごとも列挙されています。これは、文明が始まった昔から(いやきっとそれ以前から)親不孝も、殺しも、姦淫も、盗みも、偽証も、日常茶飯事のように、人間社会には溢れていたからです。アウグストゥス帝以降、二百年間は、パックスロマーナと言われて、ローマは平和を享受しますが、一歩内部に踏み込むと、犯罪や不道徳が渦を巻いていたわけです。ネロの場合は、皇帝がいわば悪の温床です。上層部が腐敗していれば、まったんに至るまで、社会は腐敗します。リアルの世界には、到底救いはないと、見切ってしまったら、リアルじゃない神の世界に逃避してしまうのは、判るような気がします。生きて行くことが、不安になればなるほど、人は、確かなもの、確からしきことを希求するようになります。
 ヴィニキウスは、叔父のペトロニウスを信頼しています。かつて自分が仕えたコルブロ将軍もリスペクトして信頼しています。軍隊は、ある程度は強制されている部分もありますが、上下は信頼関係で結ばれています。でないと、戦争に負けて、自分たちが死ぬことになります。ローマの政界やアウグスタ(貴族の男子)、アウグスタニ(貴族の女子)の集う世界では、そう易々と信頼関係を築くことはできません。騙(だま)されたら、自分の負けです。
 ゴッドファーザーパート①で、マーロンブランド扮する初代ドンコルレオーネが、最後、死ぬ間際に、アルパチーノ扮する二代目のドンに
「騙されるなよ。自分は、生涯、一度として騙されたことはない」と、述懐します。猜疑心が、超ド級で強ければ、騙されにくいと思います。が、それでは、人を信頼することが、できなくなります。何かを成し遂げる場合、人と協同して仕事をする場合には(それがマフィアのような違法の稼業であっても)やはり人間と人間との信頼のネットワークが必要です。
 騙されにくいタイプの人はいます。空気が掴(つか)めて、相手の心が読める人は、騙されにくいです。ペトロニウスは、騙されにくいタイプです。ヴィニキウスは、生一本で、騙され易いと言えます。
 自称哲学者のキロンは、いかにも胡散臭い感じです。言っていることが嘘だなと、判る人には、即座に判ります。真実が8割で、盛ってる部分が2割なら、まあ大目に見て、上手に付き合っていけばいいのかもしれませんが、真実が1割以下で、盛ってる部分が9割以上だったら、付き合う価値はないと判断できます。ペトロニウスは、甥に「キロンを、信用しすぎないように」と、警告しますが、リギアを見つけたい願いでいっぱいいっぱいのヴィニキウスは、キロンを信用して、最後、キロンには裏切られます。キロンには、失うものが何もないんです。失うものがない人間は、良い人間になる場合もあるし、悪い人間になる場合もあります。そこは臨機応変です。時々は、良い人間を演じておかないと、仕事が回って来ません。キロンは、この小説の中では、イスカリオテのユダの役回りを演じています。キリストを銀貨30枚で売り渡した、あの裏切り者のユダです。ユダは、最後、銀貨30枚を神殿に投げ込んで、首を吊って死にます。
 人間は弱い者です。自分を護るために、嘘をつくこともあります。第一使徒のペテロだって、イエスが逮捕されてから、一番鶏が鳴くまでに、三度、イエスを知らないと、嘘を言ってます。嘘をつかないという習性が、DNAとして、人に伝えられているとは思えません。嘘をつかない、他人に危害を与えない、盗まない、殺さない、ためには、自分を律する、自己鍛錬のようなものが、やはり必要です。キロンは、学問は、そこそこ身につけています。が、学問は座学でいくらでも身につきます。学問に打ち込むと同時に、身体を鍛えるエクササイズも不可欠です。宇宙飛行士の野口さんだって、宇宙ステーションで、毎日、二時間半、筋肉トレをやっていたと言ってました。「健全な精神は、健全な肉体に宿る」です。
 ヴィニキウスは、リギアが砂の上に魚の絵を描いたことを、キロンに伝えます。キロンは、魚がキリスト教徒の象徴であることを突き止めます。イエス・キリスト・神の子・救世主のそれぞれの単語の最初の字を集めると、イクシュス、ギリシア語で魚という言葉になります。その場にいたペトロニウスは、
「そうするとポンポニアやリギアは、泉に毒を入れたり、通りで掴まえた子供を殺したり、乱交に耽ったりすることになる。それは、あり得ない」と、いったんは否定しますが、聡明なペトロニウスは、キリスト教徒は、そういう悪い噂を立てられたするような人々ではないと悟ります。イエスを告発し、実質的に処刑したのは、ユダヤ教の祭司長たちです。キリスト教を、この物語の頃(イエスが死んで30年くらいは経過していると思いますが)一番、憎んでいたのはユダヤ教徒です。ユダヤ教徒が、キリスト教の悪い噂を流布したと想像できます。
 キロンは、キリスト教の集まりがあって、そこに行けば、リギアを発見できるとヴィニキウスに伝えます。ペテロもパウロも、ローマに来ています。イエスが、ペテロにローマにキリスト教の礎を築くようにと、ミッションを与えたみたいな話になっています。イエスがペテロにそんな風なミッションを与えたとかって、ちょっと考えられません。ローマ教会が、権力、権威を持ってから、後付けで、そういうレジェンドを拵えたんだろうと想像できます。
 ヴィニキウスは、集会で、ペテロの話を聞きます。ペテロは
「奢侈や快楽を断念して、貧困と潔白な風習と、真理を愛するように。不正と迫害を、辛抱強く耐え忍び、上長者と権威に服従し、裏切りと阿諛(あゆ)と誹謗を避けるように。自分たち相互ばかりでなく、異教徒にさえ、模範を示すように」と語ります。ストア派だって、節度を頌(たた)え、真理と、逆境における忍耐と、不幸における堅持を勧めています。が、リギアが信じている以上、キリスト教には、何かsomethingがある筈です。その何かをヴィニキウスは、突き止めようとします。

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