自#490「麻雀を覚えるべきかどうかは、判りませんが、ポーカーゲームは、人生の教養として、遊び方くらいは、知っておいた方がいいのかもしれません」

          「たかやん自由ノート490」(カード師1)

 中村文則さんが、お書きになった「カード師」を読みました。私は、中村さんの作品は、いくつか読んでいます。若手(まだ40代前半ですから、きっと若手です)の中では、一番、好きな作家です。ドストエフスキーを、徹底的に読み込んでいる暗さを感じます。シェークスピアもゲーテもトルストイもバルザックも、暗くはないです。20世紀の小説は、あまり読んでませんが、ジイドにもロマンロランにも、暗さは感じません。ドストエフスキーのみ、一頭地を抜いて、ずっしりと重たく、暗く、小説にはどこか、ドストエフスキー的な暗さが必要だろうと、私自身、思い込んでいる部分もあります。
「カード師」は、朝日新聞に連載されていました。ジャーナリズムの建前、見せかけの正義、日々の泡沫のような軽いネタ、などと、中村さんが構築される暗い世界とが、まるで合ってなくて、そこがアンバランスで、楽しかったりもしたんですが、連載の途中から、リアルの世界が、コロナ禍に入ってしまって、中村さんが構築されている、物語の張りつめたような暗さが弛緩してしまったような印象を受けました。リアルが、暗くなったので、物語の方は、少し、緩くしておくかと、中村さんがお考えになったかどうかは判りませんが、もっともヤバくて、暗かった「佐藤」というキーパーソンのキャラが、変わったなという印象は持ちました。最後の方は、走っているというか、端折っていると感じたので、もう読みませんでした。着地点というか、結論は知らなかったんですが、まったく想定してなかった、ある種のhappy endで終わっていました。まあしかし、小説は作者のものですし、何をどうしようと自由です。世の中は、いたるところ、unhappyだらけなので、小説までもが、ギリシア悲劇的なcatastropheを迎えてしまったら、しんど過ぎるかもしれません。コロナ禍に陥ってなければ、「カード師」の結末は変わっていたのかもしれませんが、現代の小説は、現代の世相を反映するものですし、別にこれでいいと思います。「カード師」を読んで、元気をもらいましたみたいなコメントは、きっとネット上に溢れているんだろうと想像しています。
 カード師が使うカードは、トランプカードor タロットカードです。遊戯王とかポケモンカードの類いではありません。タロットカードは、占いのために使用します。トランプを使った占いも存在しますが、この物語の中で、トランプはポーカーゲームのために使用します。ポーカーのスタイルは、テキサスホールデムです。私が子供の頃、覚えたポーカーのテキサススタイルは、最初から7枚配っておいて、2枚を捨てて、残りの5枚で役を拵え、その後、一枚ずつ場にopenにして、賭け金を積んでいく方式でした。テキサスホールデムは、二枚だけ配って、あとの5枚は、openにして場に出し、この5枚のカードを全員がshareします。場の5枚は、3枚をまずopemにして、そのあと、一枚ずつ出して、カードを新しく出す度に、riseできる仕組みになっています。5枚のカードがopenになっているので、相手がどのレベルの役なのかは、ノーマルなポーカーよりも、推察しやすいと言えます。
「カード師」は、ポーカーゲームの仕組みを知らなかったら、面白さは半減します。お読みになる方で、もしポーカーを知らなかったら、誰かに教わった方がいいです。ババ抜きや、七並べ、神経衰弱などは、別に、知らなくても問題なしですが、ポーカーゲームくらいは、人生のどこかで学んでおいた方が、ある意味、ベーシックな教養として、様々な場面で、役に立ちます。まあですが、お金を賭ける必要はありません。最も負けた人が、三時のおやつを買うくらいのペナルティで充分です。お金を賭けてしまうと、ギャンブルの世界になってしまいますし、それは、そもそも違法です。
 私は小2の時、トランプ遊びを覚えました。住んでいたアパートのひとつ置いた隣の部屋に、工業高校の定時制に通っていたIさんという高校生がいて、Iさんが、学校から戻って来た後の夜の遅い時間や、休日に、トランプで遊んでくれました。無論、お金など賭けてはいません。Iさんの友だちも時々、やって来て、グループで遊んだこともあります。休日には、Iさんのガールフレンドも来ました。Iさんと、ガールフレンドは、その後、どうなったんだろうと思ったりしたことは、何度もあります。当時、私は7、8歳。Iさんたちは、10歳くらい上でした。現在77、8歳。まだ生きていて、どこかで幸せに暮らしていて欲しいと、願ってしまいます。高校時代の恋愛が、そう上手く行かないことは、知り抜いていますが、理想や願望を抱くことは自由ですし、他人の幸せを願うことは、自分自身をも、少し幸せにします。他人の不幸を願っていても、1ミリも自分の幸せには、寄与しません。そんなことは、多少なりとも文学をかじっていれば、自明です。
 私が高校生の時、貧民ゲームが、大流行しました。一度、身分が固定してしまうと、容易なことでは、大貧民から這い上がって行くことはできません。今、考えると、その後にやって来る、ニューリベラリズムの結果発生する、社会の二極化を先取りしたようなゲームでした。貧民ゲームは、身分が固定されたまま、だらだらとゲームを続けて行きます。ゲームは、一回一回、チャラになった方が、すっきりして、楽しく遊べます。貧民ゲームは、M的な、つまり自虐的なゲームだなと思っていました。それに、貧民ゲームは、賭けることができません。勝ち負けに、何かを賭けた方が、ゲームは盛り上がります。
 高校時代に、エリューという行きつけの喫茶店で、高校の仲間たちと、スタンダードなポーカーをやっていました。コインチップスは使わず、チョコハィディ(キャンディ)が、チップス代わりでした。チョコハイディが現金にchangeするわけではありません。勝った人は、チョコハイディを、沢山、食べられる、全部、失った人は、チョコハイディを食べられない、ただそれだけの賭けです。私は、チョコハイディを食べませんから、モチベーションは限りなく低いわけですが、全部、失っても全然惜しくないので、二ペアくらいで、はったりをかませて、大勝負(と言ってもチョコハイディ100個くらいですが)に出たりしました。
 ポーカーゲームのロイヤルストレートフラッシュとかは、確率的に言って、まず出ない筈ですが、何回か、ロイヤルストレートフラッシュを見ました。ポーカーは、確率ではなく、流れです。これは、別にポーカーに限りません。世界ランキング100位のアスリートが、1位の選手に勝つのは、確率ではなく、流れで勝ちます。勝つ流れが来た時は、勝つんです。逆に負ける流れにどっぷり浸っていたら、何をしても負け続けます。ポーカーにおけるこの勝ち負けの流れは、人生のいたる所、あらゆる局面で発生します。流れを把握して、冷静かつ的確に対処することが必要です。ポーカーげームは、やはり誰にとっても、人生のベーシックな教養だと言えそうです。

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