自#410「高層ビルは苦手です。あの高さが信じられません。あの高さが無理なのは、私が大人に成りきれてない、ガキだからかもしれません。あれに慣れるくらいなら、ガキのままでいいかなと、普通に思います」

          「たかやん自由ノート410」

 建築家の隈研吾さんの「ひとの住処」という新書を読みました。私は、アート系では、絵が一番好きで、次が彫刻、3番目が写真。で、その他って感じです。その他は、庭、焼き物(陶磁器など)、工芸品、建物などです。建物は本来、純粋なアートとは言えないかもしれませんが、少なくとも奈良の唐招提寺や二月堂、三月堂といった天平のお寺の建物は、世界有数のアートです。天平のお寺には、素直に、文句なしに感動できます。何がどうなっていて、あれだけ美しいのか説明はできませんが(そもそも美は解説も説明もできないものです)天平のお寺の美しさは普遍的です。

 学生時代、上野の西洋美術館にはしょっちゅう行ってましたが、コルビュジエが設計したモダニズム建築の傑作といわれている本館を見ても、「でっかい羊羹みたいな建物だな」と思ったくらいで、感動も感銘も受けたことはないです。中庭に据えてあるロダンのカレーの市民と、コルビュジエの本館の建物とは、全然、調和が取れてないと、行く度に感じていました。建築物に対する感受性は、絵や彫刻に較べると、そうとう鈍いと、自覚しています。隈研吾さんが、設計された新国立競技場の写真などを見ても、「ふーん、これなんだ」と、特に感想も浮かびませんでした。新国立競技場について、二千字で書いて下さいと言われたら、書けなくはないと思いますが、書いている内に、本質に多少なりとも迫って行くという現象は起こらないと想像できます。建築の本質が何なのかということが、そもそも、私には良く判っていません。

 隈さんが、小4の時に見て、大感動された丹下健三が設計した代々木競技場も、何回か外観を見たことはありますが、お洒落な形の建物だなと思ったくらいで、しばらくじっと眺めていたいとか、そんなことはまったくなく、sakuっと一瞥するだけです。中に入ったこともありません。この建物の中のプールに入って、クロールで泳いでいて、顔を上げた時、天井から光りが差し込んでいるのを眺めたりしたら、何か気づきがあるのかもしれませんが、建築に関しては、そこまでして確かめたいという情熱は持ち合わせていません。

 私は、隈さんの建築に心を動かされたりは、多分、しませんし、建築関係の本を読んでも、理解も消化もできませんが、近代のモダニズムに対する隈さんの否定的なニュアンスは、判ります。

 70'sの半ばに、私は上京して来ました。その時、東京に存在していた高層ビルは、霞ヶ関ビルと新宿の住友、三井、京王プラザの3つ、合わせて4つだけでした。高校時代までを過ごした四国の高知では、6階までの建物がもっとも高いビルでした。高知市に2つあったデパートが、ともに6階まででした。6階までのビルしか見たことがなかった田舎者が、その10倍近くの50階以上の建物を見れば、やっぱり驚いてしまいます。住友ビルの中に、土佐料理の店があって、52階だか53階だかのその店に行った時、こんなに高いとこまで、エレベーターで来るのは異常だと感じました。この高さは、自分には絶対に無理だとも思いました。私は、原則、飛行機には乗りませんが、同様に高層ビルにも出向きません。若い頃は、ホテルのバーで、マティーニを飲んでいましたが、ホテルのバーは2階or地下に、だいたいありました。帝国ホテルのレインボーラウンジは17階にあって、正直、嫌でしたが、学生時代は、たまに出向いていました。もう建物の10階以上のフロアーに出向くことは、よほどのことがない限り、多分、ないです。

 都立高校が、新宿の都庁みたいなとこに、もしあったら、東京には舞い戻ってなかったと断言できます。都立高校は、せいぜい4階建て(去年勤めていた学校は5階までありました)、許せる高さです。10階までが私の許容範囲です。今、流行のタワマンとか、正直、コンセプトがまったく理解できません。

 大倉山の里山近くで遊んでいた隈さんは、子供時代の遊び心を、心に持ち続けて、建築家の仕事をされています。小4で代々木競技場を見た時、建築家になろうと決心されています。8歳~10歳くらいで、将来の夢を決定できる人が、ごくごくrareですが、世の中にはいます。ノーベル賞を受賞するような理系の学者は、だいたいその頃に、将来の方向を決めています。小3から小6の終わりまで、中学受験のために、学習塾に通って、ひたむきに勉強していたら、8歳~10歳くらいで、人生のミッションを見つけるということは、難しいんじゃないかと想像しています。

 隈さんが高1の時、大阪万博があって、将来、建築家になろうと決めていた隈さんは、パビリオンを見に行きます。隈さんと同じ1954年生まれの私も、高1で、大阪万博に行きました。時代の最先端である筈の大阪万博のパビリオンの建物に、隈さんは失望したそうです。その当時のスター建築家は、黒川紀章さんです。黒川さんは「スクラップアンドビルドを、我々は卒業しなければいけない。建築は生物のようにゆるやかに変化して行くべきだ」と、テレビ番組で、カッコ良くアピールしていたんですが、万博で黒川さんが設計した東芝のパビリオンは、隈さんに、生物的なものとはほど遠い、鉄の怪物に見えたそうです。言葉と建築は違います。言葉で説明したことが、建築で実現できるわけでもありません。言葉と建築とは別種の文化です。

 隈さんは、スイス館のパピリオンに勇気づけられたそうです。黒川紀章さんが設計された東芝館のことは覚えていませんが、スイス館は私もはっきり記憶しています。スイス館は、建物でなく、樹をアルミの細い棒で拵えていました。つまり、樹がパビリオンなんです。樹の根元のとこがパビリオン空間だと見なすこともできます。山国のスイスは、樹がすなわち居住空間そのものですと訴えても、説得力は充分にあると感じました。スイス館の樹は、遠くから眺めていても、fantasticで、幻想的でした。

 今考えると、大阪万博あたりが、日本経済の右肩上がりのほぼ終点だったと理解できます。その3年後くらいにオイルショックが起こります。その前に、三島由紀夫の割腹自殺があり、連合赤軍事件もあって、明らかに万博あたりを境目に、基調が変わりました。隈さんは、日本社会の基調が大きく変わって、その変化を受け止めながら、仕事をして来たわけです。私は、教師として、変化に振り回されながらも、教職は普遍的な仕事だと確信して、強引に35年間、やり抜きました。タイムラグがあって、学校での変化が遅かったというとこも、やり切れた理由かなと思います。隈さんの最前線での試行錯誤の苦労は、新書を読んでいても感じ取れました。ところで、学校の教員の仕事は、blackだってことに、最近はなっています。が、これは、公平な言い方ではないです。学校だけじゃなく、資本主義が進み過ぎて、今や日本の社会全体がblackなんです。

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