自#270「4月、5月の頃、コロナ感染者の数は、今の方がはるかに多いわけですが、危機感は薄いと思います。人間は、危機的状況にも、馴れ合えるということです」

「たかやん自由ノート270」

荒川区に住んでいる一歳上の従姉のMちゃんから、新年に電話がかかって来ました。新年の挨拶状のようなものを、こちらから出しました。その返事をはがきで書いたりするのが億劫なので(書き慣れてない人にとっては、はがきですら苦労すると思います)電話で返礼をしてくれたわけです。若い人と違って、我々、年寄りにとっては、電話は使い勝手の良いコミュニケーションのツールです。従姉のMちゃんだと判った瞬間、私の話す言葉は、方言(土佐弁)に戻ります。私とMちゃんが過ごした漁村は、古き良き時代の田舎でした。方言で喋っていると、その古き良き時代を、互いにshareすることができます。私が敬愛していた伯母が、Mちゃんの母親です。Mちゃんは、母親に愛されていましたし、甥の私も伯母に愛されていました。Mちゃんと喋っていると、古き良き時代の田舎も、敬愛していた伯母も、同時にshareすることができます。誰かと、大切なものをshareすることによって、心はよりレジリエンスされます。

 日本の仏教は、三回忌、七回忌、十三回忌と云った年忌法要を営むシステムを作り上げましたが、これは、年忌法要に集うことによって、故人及び故人が生きていた時代をshareし、日頃、忘れていた大切なsomethingを取り戻し、集まって来た人たちが、自分の心をセルフレジリエンスすると云った仕組みだと思われます。

 ところで、故人AIというものが、すでに発明されて、ビジネスとしても成立しているようです。故人の生前のインタビューや書き残したメモなどのデーターを使って、故人AIを作り上げます。その故人AIと、チャットでメッセージを交わし合うことが可能だそうです。インタビュー音声のデーターが豊富にあれば、音声で故人と会話できる故人AIも制作できます。ITの技術の進歩は、日に日に加速しています。今や架空のアイドルさえAIで、次々に生み出すことができます。故人をヴァーチャルな世界で、限りない近似値で、甦えらせることも、おそらく可能です。ゴーグルをつけて、VRの世界に入れば、故人との日常生活を取り戻すことができます。つまり、故人を記憶し、覚えている人がいる限り、故人AIは、仮想世界の中で、生き続けて行けるんです。いや、覚えている人が、いなくなっても、もしかしたら、攻殻機動隊の草薙素子のように、ネットの世界で、生き続けられるのかもしれません。

 コロナ禍のようなパンデミックが起こると、ネットは避難場所として機能します。実際、リモートワークやオンライン学習などによって、一気にITの世界は広がりました。自然界に存在するウィルスは、ネットには侵入できません。が、人間が作り出したウィルスは、そこら中に蔓延しています。人間の集合知が、ネットの健全性を保ち、バラ色のインターネットの世界が始まると、MS-dosが出現した頃、言われていましたが、残念ながら、ネットを悪用し、ニセの情報を流し、政敵を攻撃し、企業を恫喝し、ウィルスをばらまく人も、当然のように出現しました。孟子の言う性善説によって、ネットの世界はstartしたんですが、人間の集合知は、善悪こみこみだったことが、証明されてしまいました。ヴァーチャルの故人だって、いつの間にか、悪人キャラに変更されてしまったりするのかもしれません。そうすると、やはり、生きて残っている人の記憶や思い出だけが、頼みの綱ってことに、多分、なります。

 火事で、私は、E子と云う教え子に死なれました。いつだったか、E子のお母さんが、「先生、E子のこと、(いつまでも)覚えていてやって下さいね」と私に言ったことがあります。E子のお母さんは、私より一回りくらい歳上です。お母さんは、自分が死んでも、私が生きていれば、E子は、この世に生き続けている、そんな風な思いで、発言なさったのかもしれません。

 従姉のMちゃんと私は、電話でしゃべりましたが、私がスマホを普通に使える年寄りだったら、ラインで会話ってことになっていたのかもしれません。が、アメトークやロンハーの格付け番組で、時々、ラインのメッセージが映し出されているのを見かけますが、あの断片的な言葉の寄せ集めが、レジリエンスに寄与するとは、正直、とても思えません。一時期、うつのサイトを開設していた教え子が、そのサイトの書き込みを、紙ベースに印刷して、送って来てくれたことがあります。読むのに時間がかかり、手間取りました。通常の倍以上の時間を要してしまいました。「この読みにくさは、一体、何なんだ?」と、素朴な疑問を持ちました。結局、サイトの断片的な書き込みとか、ラインのメッセージの羅列とかには、物語が存在してないんです。リアルでしゃべっていれば、喋りそのものは、関連性のない言葉の羅列であっても、その場の状況とか、相手の仕草、表情、身体的なリアクションなどを総合して、その場のまとまった、ひとつかみの経験と云ったものを、獲得します。そのまとまった、ひとつかみの経験を、物語と言ってもいいと思います。 3・11の震災で、ある村の住人は、津波で何もかも失ったので、ホテルに集団避難している時、座布団とスリッパ、空き缶、すずらんテープなどの材料を使って、座布団の獅子を作り上げて、伝統的な獅子舞を復活させたそうです。空き缶が目で、耳はスリッパ、すずらんテープが髪で、座布団を二つ折りにして顔の形にし、布を被せ、その中に入って、舞います。座布団の獅子舞が復活したことによって、この村の人たちの魂も復活します。座布団も空き缶もすずらんテープも布も踊りも、すべてリアルです。やっぱり人は、密になって、リアルの何らかのイベントを通して、心をひとつにしなければいけない、社会的存在だと、多分、言えます。

 ワクチンが、急速なspeedで開発されて、すでにファイザー社のワクチンは、ヨーロッパでは、接種も始まっています。ワクチンが発明されなければ、コロナは、猛威をふるい、多くの人が死亡し、その後、人間や動物と共存するために、ウィルスの毒性は、弱まっていた筈です。これが自然のシステムです。ワクチンが発明されたことによって、そのワクチンに対抗するために、ウィルスは、変異し進化します。安易にワクチンに頼ることによって、人間の免疫力は、弱められてしまいます。人類の集合知が、必ずしも善だとは言えないのであれば、個人個人が、銘々の自己責任と判断で、バランス良く、落としどころを模索しなければいけないと、私は思っています。手洗いをし、マスクを着用します。外食はしません(これは今までもしてませんでした)。筋トレとジョギングを続けます。三密を避けます(今も窓を全開にして、いっぱい着込んでワープロを打っています)。で、ワクチンは打たない。これが、私の落としどころです。自己を信じることによって、レジリエンスを維持し続けるって感じです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?