自#291「3ヶ月間、松葉杖歩行をして、苦労していた時、電車やバスの中などで、一番、親切にしてくれたのは、おばあちゃんでした。次が、JD(男子高校生)。親切なJKには、一人も出会いませんでした。見るからにヤバそうな、爺いですから、まあ、やむ得ないとは思いますが」

   「たかやん自由ノート291」

東京大学先端科学技術研究センターの准教授の熊谷晋一郎さんのインタビュー記事をアエラで読みました。熊谷さんは、生後すぐに高熱を発して、脳性麻痺になり、下半身不随、上半身も両肘と手首、指は曲がったまま、ほぼ固定し、肩の動きで上半身を操作しています。電動車椅子に乗って移動し、仕事をされています。

 私は、車椅子を自分自身が利用したことはありませんし、車椅子に乗った誰かをケアした経験も、ほとんどありません。アキレス腱を切った時、車椅子をレンタルすることもできますがと、病院でアドバイスされましたが、松葉杖を使って、三足歩行(松葉杖二本と使える右足の三足)をする方法を選びました。

 自宅から、勤務している学校まで、毎日、松葉杖を使って、往復していました。松葉杖歩行を余儀なくされて、さほど、世の中はバリアフリーじゃないってことを知りました。時々、通院していたのはお茶の水の病院ですが、当時(8、9年前)JRお茶の水駅には、エレベーターもエスカレーターも設置されてませんでした。松葉杖を使って、階段を上がり降りするのは、大変な苦労が必要です。上りは、過激な筋トレのようなものです。下りはさほど筋力は使いませんが、バランスを崩すと、前のめりになって、階段の上から落下します。一度だけ、あと五段くらいのとこまで降りて、松葉杖の片方が、水に濡れた断面でスリップして、体勢を崩し、転げ落ちました。松葉杖は水濡れに弱く、すぐにスリップを起こしてしまいます。雨の日は、要注意なんです。

 毎日、JR中央線を利用していました。帰りは吉祥寺駅で乗車し、武蔵境駅で下車します。吉祥寺駅でエレベーターを利用し、エレベーターに一番近い位置で、車両に乗り込み、武蔵境駅で降りると、その近くにはエレベーターはなくて、階段横の線路との間の狭い通路を通って、移動しないとエレベーターは利用できません。この狭い通路を移動するのが、危険なんです。雨で床が濡れていたら、線路に向かって落下してしまうかもしれません。線路に落下するより、階段で落下した方が、リスクは低いので、雨の日は、エレベーターは利用せず、階段を使っていました。

 勤務している学校に向かう時、最後、歩道を通りますが、その歩道が、微妙に車が走っている車道の方に傾斜しているんです。水はけのためだと思われます。が、歩きにくいです。知らず識らずの内に、車道の方に寄ってしまいます。雨の日は、滑るので、全集中の呼吸で、歩きました。

 世の中の人が、それほど親切じゃないってことも、松葉杖歩行を始めて、改めて知りました。親切なのは、おばあちゃんです。お年を召したおばあちゃんなのに、松葉杖の私に席を譲ってくれようとします。帰りの中央線は、どの車両もラッシュで超満員でした。満員電車に乗り込むと「松葉杖とか使ってる奴が、何でこんな満員電車に乗り込んで来るんだよ」みたいな、露骨な嫌悪感を示されたりもしました。もっと空いてる車両に乗れよと、はっきり言われたこともあります。満員電車は、それに乗ってるだけでストレスなんです。そういうストレスがあって、余裕がない時に、他人に親切にしたりすることは、まずできません。自分に取ってプラスにならない、邪魔で目障りな人間は、消えて欲しいと言う、人間の生存本能のようなものが働くんだと思います。私は松葉杖歩行でしたが、車椅子や子供を乗せたバギーを利用している方だって、これまで、理不尽な差別を、嫌というほど経験されている筈です。

 熊谷さんは、生後7ヶ月からリハビリを始めます。1時間くらいのリハビリを、毎日、4サイクルやったそうです。これがとんでもなく痛くて、熊谷さんは、痛みに耐えかねて、泣き叫んだそうです。が、母親はやめてくれません。熊谷さんは、3歳の時「僕はもう訓練(リハビリ)はしない」と、お母さんに言ったそうです。3歳児にだって智慧はあります。母親に指示される健常者の動きは、自分には不可能だと直観で悟ります。実際、脳性麻痺の障害には、リハビリでは対処できないそうです。熊谷さんは、その後も、ずっと、今の医学の常識では誤りであるリハビリを強要され続けます。「当時の自分は怒りの塊みたいな子だった。訓練中にいつも、母親の顎に頭突きをし、リハビリ施設にビームを身体から発して爆破する想像をしていた」と、子供の頃のことを回顧しています。治療のためには、何の役にも立たない、ただ痛いだけのリハビリを、何年も続けさせられたわけで、理不尽な体験だったと言えます。が、そういう理不尽な体験が、人を強くすると言うことも、現実にはあります。

 中学時代は、数学に惹かれたそうです。頭の中に座標軸を思い浮かべれば、その中で、世界を自由に創造することができます。頭の中の世界はとんでもなく広がって行きますが、自分の身体は、十数年間、リハビリを続けても効果はなく、トイレや入浴、着替えなど、身の回りのことは、母親まかせでした。小・中・高と、母親が付き添って学校に行っています。大学に進学する時、親離れしなければいけないと、決心したそうです。親を頼っていたら、親が死んだあと、自分が困ります。母親の反対を押し切って、東京の大学に進学します。改築可能なアパートを見つけて、バリアフリーにアレンジします。が、トイレに行くのでさえ床を這って行くしかなく、便器にも座れず、何度も失敗を繰り返したそうです。どれだけ大変な苦労をされたのか、想像することもできません。

 医学部に進学し、臨床実習で、自分にはできないことだらけだと思い知らされますが、小児科の先輩に「小児科には、こういう手が必要だ。何でもできる手ではなく、相手の痛みが分かる手だから」と、声をかけてもらって、小児科に進みます。医師になって、千葉西総合病院に勤務します。救急病院で夜勤もあります。採血をするのに、口も使っていたと仰っていますから、五体の使える部分を、総動員して、仕事をされていたんです。今、コロナ対応で、とんでもなくハードな仕事をこなしている病院と同じように、日々、大変な激務を強いられる病院だったらしく「忙しい病院では、全員が自分の無力を痛感します。自分一人では何もできないと云う意味では、障害者と似ていて、皆が助けを必要としています。お互いの癖や素性をよく知っていて、それぞれが助け合ってタスクに集中しているんです」と熊谷さんは語っています。夜勤の当直医も担当しますが、ひと晩で何台も救急車がやって来るそうです。

 身体が不自由だからと言って、それを理由とせず、普通に仕事をしようとする。それは、想像を絶する強さと勇気が必要な行動です。が、これもまあ、アリストテレスの云う習性的徳なのかもしれません。五体満足の私は(左足のアキレス腱は限りなく薄くて、へろへろですが)努力の絶対量が、全然、足りないなと、熊谷さんのインタビー記事を読んで、思い知らされました。

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