自#251「戦争というのは、今や日本人のほとんどの人が経験したことのない、極限の悲劇ですが、介護の極限の状況とかは、ザラにあるわけですから、悲劇は実は、そこら中に、いくらでもあります」

  「たかやん自由ノート251」

週刊朝日で「ケアママ」と云う介護をテーマにしたマンガを連載しています。今週号は、プロレスラー兼ヘルパーの千陽(ちはる)が、バスに轢(ひ)かれそうになる老女の采を、間一髪のとこで救い出すsceneで始まります。采は、認知症です。拘束して、縛り付けておかないと、勝手に徘徊してしまいます。采の娘の美裕は、認知症の母をヘルパー事業所ピンフォールに置き去りにして、逃げ去ります。ビンフォールには、千陽とたからと云うヘルパーがいます。千陽は、采を助けたあと、車椅子に彼女を拘束して、警察に引き渡そうとします。警察官が事務所にやって来て
「何故、拘束しているのか?」と問い質(ただ)します。千陽は、縛ったのは家族で、この状態で放置して逃げたと証言します。この証言は、半分は嘘です。采を、再び縛ったのは、千陽とたからです。たからは
「縛ったのは自分たちです」と、警察官に申し出ます。
「おばあちゃんが、こわい。かみつく。バスにも撥ねられそうになる。縛るしかなかった」と、正直に証言します。

 私の母も、病院に入院して、基本、ベッドに寝たきりで、手足は拘束されていました。食事は食べないので、点滴を打っているんですが、手が自由だと、点滴の注射針を、自ら引き抜いてしまうんです。果物ナイフのような鋭利なものが傍にあって、手が自由に使えるとしたら、それで誰かを(多分、息子の私を)刺したり、自分の首にナイフを突き立てたりすることは、充分に考えられました。手の指も使えないようにするために、常時、ミトンを嵌(は)め、しっかりと結わえられていました。母、私にとって、元々、よい母親であるとは、お世辞にも言えない人でしたが、認知症になってからは、私にとって、完全な悪人になりました。私が、母を自分で介護するのを、早い段階で諦めて、しばらくの間、女房に任せ(女房にとっては、別段、さほどの悪人ではなかったようです)その後、病院に入院させました。万一、私が母の介護をしていたら、母が悪人なので、その悪人は、私にも乗り移っていた筈です。母の血を、嫌と云うほど濃く受け継いでいる私は、母の悪い部分は、易々とコピーできてしまいます。母には、私を殺すだけの体力はもうないので、私が母を殺して、何もかもThe Endになっていたと思います。中1の時、私は母に殺されると懸念して、家出をしましたが、そこから半世紀くらい経て、今度は、自分が母を殺す危険性を察知し、母から、またもや逃げ出したわけです。たとえ、愛してはいないとしても、たった一人の肉親の息子に、最初から最後まで逃げ続けられ(多分、私の父親にあたる人も、母から逃げ出した筈です)、それで幸せな人生であったとは、とても思えません。が、人の人生のありようは、幸せだとか、幸せでないとかと云う単純な尺度では、到底、推し量ることはできないsomethingなんです。母は、人を殺さず(ただお腹の中の子供は、堕胎して何人か殺していますが)殺されもせず、無事、病院で死にました。死因は老衰です。享年88歳。私も、母に殺されもせず、殺しもせず、もう文句も言わない、私を殴ることもできない、母の骨を、身近に置いて、日々、息災に暮らしています。

 週刊朝日の別のページに、「親を虐待しない7ヶ条」と云う記事が掲載されています。「素介護する側、される側、両方が悲しまない7つの対処法を伝える」と小見出しも出ています。別段、7つも必用ない気がします。親を虐待しないためには「物理的に距離を置く」と、この1ヶ条だけで充分だと、私は思っています。物理的に距離を置かないで、身近で介護をしていて、それで虐待しないとなると、他人も含めた複数の人間が、介護に関与しないと難しそうです。

 母、水商売をリタイアした後、病院の付添い婦(ヘルパー)をしていました。患者を虐待していたとは、私は思ってませんが、決して親切なヘルパーではなかったと確信できます。仕事は、きちんとできる人でした。昔の人ですし、苦労も嫌と云うほどしていますから、とにかく根性がありました。小学校しか出てないので、漢字や歴史などは、自分で勉強していました。根性もあるし、努力もできる人です。仕事もできます。が、仕事ができる人にありがちな、思いやりのない人でした。必用なことは、過不足なく全部、やってくれるけど、優しさとかあったかさがない、そういうヘルパーだったと推定できます。

 私の伯母も、晩年は、母と同じように、病院の付添婦をしていました。母は、個室で一人の患者だけをケアしていましたが、伯母の働いていた病院は、二人のヘルパーで、大部屋の6人の介護をしていました。認知症のレベルが、軽度だったと云ったこともあったと思いますが、単純に考えて、伯母の仕事量は、母の3倍です。が、病室の雰囲気は、別段、暗くなくて、結構、わきあいあいでした。伯母の人柄が、介護に多分、向いているんです。伯母は、あったかくて、思いやりのある人でした。母とは、まったく真逆な性格でした。姉妹は歳を取ると、だんだん似て来ると言われていますが、二人は、幾つになっても、似てませんでした。顔も性格も、全然、違います。この二人の姉妹の仲が良かったってことも、私が知る限りなかったと思います。本当に姉妹なのかと、子供の頃、疑っていた時期すらあります。介護に向いていた伯母と一緒に仕事をしていた相方さんも、伯母に感化されて、いい仕事をしたので、病室の雰囲気は、明るかったんじゃないかと、勝手に想像しています。

 学校のクラスの定員を20人にして、少人数教育を目指すと云った風な話題が、よく取りだたされます。が、40人を20人にすると、生徒の出会いの組み合わせの数が、大幅に減ってしまいます。diversity、多様性と云う観点に立てば、20人よりも、40人の方が、望ましいです。ただ、担任の先生が、soloで、40人の面倒を見ていると、ややともすれば、行き詰まってしまいます。40人を20人にするより、担任を2人にした方が、教師、生徒、双方にとってメリットがあると、私は考えています。二人担任制で、どっちかがメイン、どっちかがサブと云う関係ではなく、二人が対等の立場で、クラス運営をすればいいんです。ローマのコンスルは二人いて、まったく対等の立場で、政治運営をしていました。学校は、基本、権力を行使する場ではないので、対等の二人担任制で、充分、上手くやっていける筈です。

 介護も教育も、soloで頑張るのではなく、多くの人を巻き込みながら、一人一人の担当者の負担を軽減し、なおかつ、完璧などは目指さず、ほどほどのとこで、満足し、妥協もすると云う経験値も、きっと必用です。

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