教#076源氏物語⑥

      「たかやんノート76(源氏物語⑥)」

 二つの本棚の一番下の段に、小学館の「原色日本の美術」全30巻を入れてあるんですが、本棚の前に本をかなりの高さで平積みしてあるので、取り出せませんでした。平積みの本を全部捨てて、即座に取り出して利用できるようにしました。本棚は全部で五つあって、その内の三つには、外国の美術全集が並んでいます。それとは別に、足元にルーブル美術館全集を置いてあります。今、毎日、19世紀のフランスの絵を見ています。フランスの絵を見て、源氏物語のノートを書くのは、文化が違い過ぎて、上手く切り替えられません。日本の絵巻や寺院、仏教彫刻などを少し見て、源氏物語のノートを書く方が、自然です。

 今日は、奥村土牛さんの醍醐三宝院の桜を見ました。醍醐の桜を、左近の桜と読み替えをすれば、源氏物語の世界に入って行けます(ちなみに、左近の桜の「左近」は、左近衛府の略です。紫宸殿の前に植えてある桜は、左近衛府が管理、ケアしていたんです。右近の橘は、無論、右近衛府の管轄です)。

 光源氏は、七歳から勉強を始めます。現在も、満七才になる年に、小学校に入学します。elementary educationは、七歳でstartするのが、どうやら世界標準です。もっとも、昔は教育を受けられるのは貴族だけです。今は、教育は誰でも普通に受けられます。国民には教育を受ける権利があります。義務教育と云う言葉は、誤解を生みます。教育を受ける義務があるわけではありません。これは、親が子供に教育を受けさせる義務があると云う意味です。

 小学校が始まったのは、明治20年くらいです。それまでは、お寺のお坊さんとか、漢文の先生が、子ども達に教えていました。勉強方法は、素読です。論語や孟子を暗唱すると云った教育方法です。今、意識高い系の幼稚園では、論語の素読をやってたりするとこがあります。素読は、確実に言葉の力を養う、王道の教育法です。

 光源氏が受けた教育も素読です。光源氏は、母屋の中央に、文机を前に置いて座っています。教育係りは侍読(じどく)と尚復(しょうふく)と、二人います。この二人は、庇(ひさし)に座っています。ウィルス感染は絶対に起こらないくらい、離れています。つまり、適正なsocial distanceを保っているわけです。侍読が、ワンフレーズ、読み上げます。尚復が、これを聞いて繰り返します。光源氏は二回読まれたフレーズを、さらに復唱します。一番、最初のテキストは、玄宗皇帝が注釈を施した孝経を使います。

 当時のオフィシャルな勉強は、経書の講読と漢詩文の制作です。後に夕霧が、史記、漢書、後漢書の三つを必死になって、おさらいしてたりしますから、中国の歴史も、必須科目だったと思われます。こういうオフィシャルな勉強(つまり、わざとの御学問)以外に貴族の子弟は、基本的な教養として、琴、笛も学びます。光源氏は須磨に流された時、須磨のスケッチもしています。桐壺帝の試薬で、頭中将と二人で、青海波のみごとなパフォーマンスを見せたりもしました。音楽、絵画、ダンスの練習も、かなり熱心に行ったと想像できます。

 光源氏が勉強を始めた頃、高麗人の使いが日本に来ていました。注釈を見ると、高麗人とは渤海国使のことであると書いてあります。渤海は、唐の滅亡後、ほどなくして滅びた国です。渤海のあと、高麗が建国されました。ここは、普通に高麗人でいいと思います。

 高麗人の中に、相人がいたので、帝は、光源氏の将来を占わせるために、右大弁の子供だと思わせて、外国人の使節を応接し、宿泊させる鴻臚館に光源氏を行かせます。

 私は学生の頃、易経を読もうとしたことがあります。が、10分の1も読めないまま、挫折しました。その頃、マクロビオテックと云う一種の栄養学に凝っていたので、その関連で、易経にchallengeしたんですが、論語を取り敢えず読んだくらいの学力では、易経は到底、読めないと理解しました。易経がどういう書物なのかは理解しています。陰陽の二元を組み合わせた六四卦によって、自然と人生との変化の道理について解説している書です。易経には、観想の術やスキルについては、書かれていません。

 観想のルーツは解りません。広辞苑を引くと「人の容貌・骨格を見て、その性質・運命・吉凶を判断すること」と書いてあります。注釈を見ると、髪の生え際、額の形、鼻・口・眉・眼・眼の周囲の皺・耳などを観察すると記しています。要するに人相見と云うことです。

 人相見と云う観点に立つと、19Cフランスの自画像、人物像は、すぐれています。盛ってると思われるのは、ルノワールだけです。ブルジョワの夫人や令嬢に、華やかで甘いオブラートをかけてブレゼンしています。もっとも、イタリアに行って、ポンペイの壁画を見て来てからは、反省して、もう盛った絵は描かなくなりました。

 帝が光源氏を右大弁の子供だと偽って送り込んだのは、高麗の観相人に、盛って欲しくなかったからです。光源氏の真実の将来の姿を知りたいと願ったわけです。「相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ」と本文に記しています。右大弁の子供ではないことは、たちどころに見抜きます。国のtop、つまり帝になるべき相を持っているんですが、そうすると「乱れ憂ふることやあらむ」なんです。臣下として、帝を助けるポジションに就くのも「またその相違うべし」だったりします。つまり、帝になるべきだが、なってはいけない。ただの臣下になっても、NGなんです。非常に矛盾した占いの結果が出て、この矛盾した謎の答えを、この後、紫式部は書き続けることになります。全体の構成を決定づけている絶妙な伏線だと納得しました。

 桐壺帝は、高麗の観相の結果を聞いて、倭相の方でも、検証します。岩波の注釈には、「倭相には聖徳皇伝来秋野流相法活要、一冊(写し)などがある」と書いてあります。倭相でも、高麗の相と同じ結果が出ます。光源氏は、帝になってはいけないので、桐壺帝は、光源氏を臣籍に下し、源の姓を賜ります。

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