自#454「私にはミロのヴィーナスの美しさが判りません。顧愷之の描いた女史箴図とかも、どこがいいのか、皆目、見当もつきません。子供の頃から、絵や彫刻が好きなのに、そこら中、弱点だらけです。が、そもそも人間は不完全で、弱点だらけなんです。別にこれでいいやと、割り切っています」

「たかやん自由ノート454」(クォヴァディス3)

ヴィニキウスは、叔父のペトロニウスに、アウルス将軍の家で、初めてリギアを見た時のことを「曙の光がその全身を透して来るような印象だった」と、語っています。光輝くような強烈な第一印象で、ヴィニキウスは、リギアに惚れたわけです。第一印象で、女性にMaxまで惚れるってことは、私には正直、良く判りませんが、川端康成の小説にも、第一印象でハートを、わしづかみにされて、ストーカー的な行為をする男の話があります。世間の多くのストーカーも、第一印象で、ハートを持って行かれてしまっているんだろうと想像できます。ヴィニキウスは、リギアを見初めて、その時から「(他の)女も金もブロンズも琥珀も真珠も葡萄酒も宴会も厭になった」と、語っています。
 私自身のことで言うと、過去に恋愛をしなかったと言うと嘘になります。まあ、人並みに恋もしました。が、何もかも捨てて、恋愛に没頭したということはありませんし、常に理性的に恋愛や恋愛以外の事項とのバランスを、きちんと取りながら、日々、無難に過ごしていました。漱石の三四郎と同じです。恋愛にリスクを賭ける勇気が、私には備わっていません。ヴィニキウスもリギアも、恋愛にすべてのリスクを賭けています。リギアの場合、それが神への愛に直結しています。恋愛が、ヘレニズム的な文化だとしたら、クォヴァディスは、ヘレニズムとヘブライズムを、見事なまでにコラボさせています。それが、この小説の一番の魅力だろうと想像できます。
 ヴィニキウスは、アウルス将軍にリギアのことを訊ねようとします。恋をすると、相手のすべてが知りたくなります。それは、私にも判ります。が、すべてが判ったりせず、モザイク状に、部分部分が判って、謎がいっぱい残った方が、恋愛は長続きするような気がします。若い頃、仲の良かったA先輩に
「オマエは、自分のことを、正直に喋る。が、それじゃ、女の子にはもてないぞ」と、忠告されたことがあります。女の子にもてると言った、ちゃらちゃらしたことには、興味関心がなかったので、先輩のアドバイスは、さらっとスルーしましたが、合コンとか、婚活とかは、一種の騙(だま)し合いです。騙し合うテクニックのひとつとして、謎の部分は、やっぱり必要です。上手に騙してあげないと、リスクを犯しがちな、今ひとつバランス感覚のない人間もいます。ヴィニキウスは、生一本ですが、バランス感覚が足りません。リギアには、ヴィニキウスをコントロールする能力は、おそらくありません。ヴィニキウスを導いているのは、主に叔父のペトロニウスですが、ペテロやパウロもサポートしています。あの偉大なBig Nameのペテロやパウロが、若い男女の恋愛のケアをすると言ったフレンドリーさも、この小説が、人口に膾炙している理由のひとつだと推測できます。
 アウルス将軍は、ヴィニキウスが聞きたいことを、そう簡単には喋ってくれません。別に秘密にしたとか、謎にしたいとか、そういうことではなく、自分自身のオハコの話がしたいんです。私は、若い頃、酔うと必ず、同じ話をする年輩の男性を、それこそ枚挙に暇ないほど、沢山見て来ました。同じ話を、10回以上聞いた先輩だっています。何故、こうなってしまうのか不思議でした。30歳で私がアルコールをやめたのは「飲んで、同じ話をしたりする年寄りには絶対なりたくない」ということも理由のひとつです。
 リピートされるのは、だいたいにおいて自慢話です。青春時代の黒歴史などを、年輩のおじさんが語ったのを、聞いたことがありません。黒歴史に向き合うと、自分自身が揺さぶられますし、精神の安定を保つためにも、自慢話のオンパレードになるというシステムになっているのかもしれません。
 アウルス将軍は、ブリタニアなどで得た勝利の数々を語って聞かせます。私は、戦争の話を、積極的に語る人を、見たことがありません。私の伯父は、予科練の飛航隊員で、終戦があと二日遅かったら、南方の海で、おそらく死んでいました。伯父は、軍歌は歌いましたが、戦争の話はしませんでした。アジアの民と、インドヨーロッパ語族とは、戦争に対する捉え方について、根本的に何か相違しているものがあると、ギリシア神話や北欧神話などを読んでいると、思ってしまいます。
 アウルス将軍は、年寄りですから「今の時勢は柔弱になった」と、嘆いています。最初の学校でバンドの部活の顧問を一緒にやっていたK先生が
「自分たちは、若い頃、年輩の人に、オマエたちは根性がないと、繰り返し言われた。が、今、それを自分も生徒たちに言っている」と、こぼしていたことがあります。私は、生徒の行動のあり方や価値観などには、基本、踏み込みませんし、自由放任スタイルの教師でしたから「今の若い子は、根性がない」などと、言ったことは、多分、ないと思いますが、自分たちの子供の頃と較べると、今の若い人は、メンタルが弱くなったとは感じます。それは、つまり物質的にゆたかになったことが、多分、一番大きな理由だろうと、私は想像しています。私は、若い頃のメンタルの強さを、今に至るまで保ち続けていますが、それは物質的なゆたかさと距離を置いて、質素で地味な生活をしているからです。
 アウルス将軍は鳥小屋で雉を飼っています。が、それを食べたりはしません。アウルス将軍は、雉を一羽食べる毎に、ローマの勢力が終わりに近づくと信じています。軍人としての長年の厳しい生活が、アウルス将軍を鍛え抜いたと想像できます。
 ペトロニウスは、一回目よりは二回目、二回目よりは三回目の方が、リビアの美しさをより深く理解します。つまり会う度に、新たな美しさを発見して行くわけです。最初の一目で、すべての美しさが全部判るという大天才も、世の中にはいると思いますが、多くの美学者や審美家は、場数と経験を重ねて、より美しさの奥底に入り込んで行くものです。女性の裸体美の美しさを発見したのは、古代ギリシアです。アルカイック時代には、女性の裸体像は登場してないので、古典期に女性の裸体美の完成型を、拵えたんだろうと想像しています(ちゃんとしたものは一体も残ってないので想像です)。現在、残っている作品の中の最高傑作は、おそらくヘレニズム時代のミロのヴィーナスです。が、私はミロのヴィーナスの美しさが、今ひとつ判りません。女性の裸体美の美しさを、充分に理解できないという弱点が、どうやら自分にはあると推測できます(だからと言って、別段、困ることは何もありませんが)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?