自#228「年寄りになったら、わがままにならず、怒ったりもせず、へらへらもしないって、まあ、判ってるんですけど」

「たかやん自由ノート228」

キングダムを、吉祥寺のツタヤで借りて来て読んでいますが、第28巻が借りられていて、第27巻の信が、長平で埋められた土の中から這い上がって来た趙の万極将軍を、斬って成仏させてあげたくらいのとこで、stopしています。自宅に「鬼滅の刀」(1~22巻)があるので、そっちを読み始めたんですが、中国の戦国時代(BC3世紀)と日本の大正時代(AD20世紀)とでは、時代も文化も違い過ぎて、しっくり来ません。加えて、私は毎日、中古(AD11世紀あたり)の源氏物語を読んでいます。高校時代は、5、6種類の本を、同時並行で読んでいましたが、もうそんな風な慌ただしい読書は、自分自身の動きのテンポが遅くなって、できなくなっています。鬼滅の刀は、取り敢えず、さておいて、本棚から岩波文庫版の中島敦の「山月記・李陵」を取り出しました。

 この本は、7、8年前、「環礁」と云う南洋の島のエッセーのような物語を読むために、購入しました。第一次世界大戦の時、日本は、ドイツ領の南洋の島を奪って、終戦後も、国際連盟から委任されたと云う形で、支配していたんですが、日本の委任統治時代の雰囲気を知りたくて、「環礁」を読みました。ゴーギャンの絵のような、鮮やかな原色ではなく、安藤広重が描いたような、情緒纏綿とした、南洋の景色が見えました。フランス人の野人のゴーギャンではなく、日本のディティールの細かい文学者が書いた小説なので、その見える景色も、やはり和風です。

 タイトルの「山月記・李陵」の二つの作品は、高校時代に読みました。どちらも、その後、一度も読み返してません。山月記は短編で、太い筆で一気呵成に書き上げたような作品です。主人公は虎になります。カフカの変身と同じです。人生、どうなるか判りません。還暦を過ぎた老人になると、一寸先はどうなるか判らないと云う人生の摩訶不思議なリアルは、骨身に沁みて理解できます。

「李陵」の方も、アウトラインは覚えています。こまかい所は、さすがに忘れ去っています。サマセットモームは、一度、読んだ作品は、すべてことごとく、細部にいたるまで理解し、記憶していたらしく、子供の頃「読む本がなくなったら、どうしよう」と、心配したそうです。普通の人間は、自分が実人生で経験したことも、読んだ本の内容も、どんどん忘れて行きます。忘れて行けると云うのも、能力のひとつかもしれません。コンピューターは、消去はできるのかもしれませんが、忘れることはできません。一度、ネットにアップしたら、その情報は、forever、残り続けます。考えると、ちょっと恐ろしい気もしますが、まあ、そう深く考えないことにしています。深く考えない、浅く流す、言ったことをすぐに忘れる、人間は都合良く生きて、都合良くハッピーに過ごして行けるprivilegeを持っていると云う気もします。

 漢の武帝は、西域経営を始めるために、河西四郡を設置しました。甘粛の黄河以西に北はゴビ砂漠、南は祁山山脈に挟まれた、東西に細長い帯状地帯があります。その長さ1000キロの帯状地帯に、オアシスが点在しています。そこに、敦煌、酒泉、張掖、武威の四郡を置いたんです。ちなみに、ここには、かつて月氏が住んでいました。ゴビ砂漠を渡ってやって来る匈奴に攻められて、月氏は西に移りました。河西四郡を設置すると云うことは匈奴に対して「匈奴、かかって来いや」と、挑発し、煽るのと同じです。が、He is not what he was. 匈奴もその昔の頭曼単于や冒頓単于の頃ほど、趙ド級に強いわけでもありません。強いっちゃ強いけど、時には、漢の大将軍衛青や嫖騎将軍霍去病に敗れたりもしています。ゆたかな漢の都市(朔方、五原、雲中など)を襲って、略奪し、リッチでゆたかな生活に馴染んで、step by stepで、メンタルも身体も弱くなって行き、前漢の終わりあたり、呼韓邪単于の時、東西に分裂し、呼韓邪単于は、前漢に臣属し、へらへらしながら、王昭君をもらったりします。

 李陵は弐師将軍李広利の軍の輜重を受け持つことを命じられます。輜重と云うのは、つまり兵站ラインの担当です。が、李陵は飛将軍と言われた、かつて虎を射るつもりで矢を放ったら、虎ではなく石で、その石に矢が突き刺さったと云う伝説の名将、李広の孫です。李陵は、八百人将軍から、五千人将に昇進し、血気盛んな時代です。「臣願わくは少を以て衆を撃たん」と、上申します。武帝は、こういうハデないきった言葉が好きなんです。李陵が率いているのは歩兵です。匈奴は、全員、騎馬で、単于の軍ですと、最低10万騎くらいはいます。五千人の歩兵が、車を牽いて、1000キロ以上、ゴビ砂漠を移動したら、それだけでも、体力、エネルギーは枯渇してしまいます。そもそも、この出撃自体が、無謀で無理な行動だったんです。血気盛んな時代だとは言え、こんな簡単なことも理解できない李陵は、将軍の器ではないと、今回、読み返してみて思いました。最終的に逃げ帰ったのは、400人です。つまり4600人の部下を殺しています。太平洋戦争のたとえば、インパール作戦など、まったくもって無謀でしたが、人間は、歴史に学ばず、おろかな失敗を繰り返す生き物だなと、思ってしまいます。

 武帝は、五十年以上、皇帝として君臨します。李陵のこの事件は、武帝の晩年に起こります。絶対君主として、五十年以上も権力を握り続けると、やっぱり弛緩し、腐敗します。年を取ると、わがままになり、怒りっぽくなると言われています。確かに、そうかもしれません。ですから、わがままにならず、怒らなくてもいいように、有能な若手に引き継いで、ほどほどのとこで引退した方が、望ましいと言えます。スーパー権力者の武帝には、それができません。司馬遷は、李陵を庇います。どう考えても敗れるような無謀な出撃ですから、庇うまでもないことですが、武帝は怒って、司馬遷に宮刑を命じます。宮刑は、ポールと玉をすぱっと切り落とし、傷口が腐らないように、あったかい乾燥した部屋で、しばらく様子を見て、それでも死んでなかったら、宦官として、再び宮中で仕えることになります。まあですが、この死罪以上の屈辱を与えられたことによって、司馬遷の史記は、深みを帯び、司馬遷節とも云うべき哀調が生まれます。これもまあ、禍福はあざなえる縄のごとしなのかもしれません。

 匈奴は、徹底的なゲリラ作戦です。ゲリラ作戦で、相手を弱らせておいて、最後に追い詰めます。遊牧の民も、山岳の民もゲリラ作戦で戦います。毛沢東は、長征(大西遷)の過程で、このゲリラ作戦を自家薬籠中のものにし、最終的に、蒋介石の国民党に打ち勝ったと、多分、言えます。

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