自#641「大学時代の4年間は、gdgdでした。だから、高校生がgdgdしていても、まあ、ごく自然に感情移入できたりしますが、やっぱりあの過ごし方は、もったいなかったというプチ後悔は、なくもないです」

      「たかやん自由ノート641」(泉鏡花)

 鏑木清方は、23歳の時、泉鏡花の「三枚続」の口絵と装幀を担当し、以後、泉鏡花と親交を結びます。泉鏡花との出会いは、鏑木清方の人生に、決定的な影響を与えたと、私は推測しています。ロマン主義の巨頭の泉鏡花は、間違いなく、文章の世界のカリスマです。が、残念ながら、私はこのカリスマの文章を、ちゃんと読んだことは、かつて一度もありません。
 私はジョイスもプルーストもTSエリオットも読んでません。この三人が、20世紀文学のカリスマであることは、間違いないです。が、まあ私は文学は本業ではなく、単なるディレッタントですから、正直、そこまでは手が回らなかったと、つい言い訳をしたくなります。泉鏡花とか、その師である尾崎紅葉のような明治の文豪には、やはり手が回らなかったと、まあこれも、今さらながらの言い訳です。
 小林秀雄は泉鏡花に関する評論は書いていませんが、間違いなく、泉鏡花をリスペクトしていました。泉鏡花は、やはり避けては通れない高い壁かもしれないと、漠然と感じていました。そう感じたのは、17歳の頃です。それから半世紀が、瞬く間に過ぎ去ってしまいました。
「おほかたは月をもめてし、これぞこの、つもれば人の老いとなるもの(伊勢物語87段)」 宗達の絵では、年齢不詳の男たち四人が、月を眺めていて、余白にこの歌が書かれています。めでしなのか、めでじなのか、古文は濁点を表記しないので、解りません。が、それはどっちでもいいような気がします。人生、どこかで必死になって、何かに取り組まなければ、月を愛でようと、愛でまいと、あっという間に、人は老いてしまいます。
 二十代で、自分の人生にとって、決定的な影響を与える人と出会い、その人と交際し、刺激され、影響され、鼓舞され、励まされて、自己のミッションともいうべき天職を全うすることができれば、最高にhappyな人生なんじゃないかと、想像しています。鏑木清方は、泉鏡花と出会って、泉鏡花の本の口絵、挿画など描きながら、同時に、樋口一葉にも私淑していました。
 心の底から尊敬できる人がいること、それだけで、人は安心できて、幸せを感じます。リアルの現実世界で、そういう尊敬できる人に出会うのがベストですが、作品を見たり、著作物を読んで、私淑するでも、構わないと思います。
 大学2年の夏休み、金沢に一週間ほど滞在したことがあります。大学生の頃は、ビールもウィスキーも日本酒も、飲んでいましたが、毎晩、飲めるほど、財力がゆたかだという訳でもありません。一周間の滞在中、香林坊(金沢の繁華街)でアルコールを飲んだのは、最後の夜だけです。あとの夜は、ジャズ喫茶or クラシック喫茶で、紅茶か珈琲を飲んで、音楽を聞きながら、ホテルに戻るまでの時間を過ごしていました。
 室生犀星の詩も小説も、ある程度、読んでいました。井上靖が四高に在学していた頃を舞台にして書いた青春小説にも、目を通していました。だからと言って、金沢を知っているなどとは言えませんが、まあ読まないよりは、読んでおいた方が、より街に親しめます。兼六公園のベンチに座って、ぽへーっとしていたら、「金沢と言えば、やっぱ泉鏡花でしょう」という考えが、突然、浮かびました。が、私は、この巨匠について、ほとんど何も知りません。知っている書名も、国語の便覧に掲載されている「高野聖」と「歌行灯」のみです。
 が、まあ、どっちかを読んでみようと、書店に行って、その二冊の文庫(岩波文庫)を手にし、ページを捲ってみました。「歌行灯」の方は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を読んでないと、理解できないということを、即座に悟りました。「歌行灯」が出版されたのは、明治の末期ですが、明治時代の読書人は、我々が、子供の頃、少年マガジンや少年サンデーに親しんだように、「東海道中膝栗毛」のような、戯作文学に、幼年時代に親しんでいます。残念なことに、私は、今だに、この名作を読んでません。今後、安藤広重の絵を、本気で見るという展開になったら、さすがに「東海道中膝栗毛」は、避けては通れない壁だと、推測しています。
 私は、高校時代、角川から出ていた柳田国男の文庫は、だいたい読みました。遠野物語は二回読みました。遠野物語を読んでいて、妖怪的な世界に関しては、ある程度のベーシックな知識はあるつもりなので、「高野聖」なら読めるだろうと当たりをつけて、購入し、「無言歌」という名曲喫茶に入って、「高野聖」を読みました。高野聖は、飛騨から信州に抜けます。おそらく野麦峠越えだろうと想像しました。金沢から飛騨に回って、飛騨から信州にかけて歩くといった考えも、ほんの少し浮かびましたが、大学二年の頃は、歩く人間というより、私はプチ乗り鉄だったので、「いや、鉄道を離れちゃいかんでしょう」と、すぐにこのトレッキング案を打ち消しました。歩くことが、楽しいと思えるようになったのは、大学4年の終わりの八ヶ岳登山以降です。
 金沢の名曲喫茶で「高野聖」を読んで、それなりに面白かったんですが、そこから、どしどし泉鏡花の世界に、分け入って行くという展開には、なりませんでした。プチ乗り鉄は、列車に長いこと乗るんですが(特急は使わず、すべて普通列車を利用していました)その間、車窓から外の景色を眺めたり、雑誌(朝日ジャーナル、週刊新潮、週刊文春、文藝春秋など)を読んだりしていました。ちゃんした本に向き合って、powerfulに本を、次々に読破するという基本の姿勢は、完膚無きまでに崩れていた、学生時代の4年間でした。学生時代は、奈良や京都のお寺や、博物館、美術館を回って、アートを結構、見たと、自分に言い訳をしたくなりますが、まあ、どう考えても、客観的に見ると、gdgdの学生時代でした。そのgdgdのツケを、その後、払ったのかどうかすら、定かではありません。
 アートを見るためには、背景の知識が必要です。私のように素人のディレッタントは、アートだけを取り出して、それを正当に鑑賞することは、まず不可能だと自覚しています。私は、19世紀のフランスのアートには、結構、詳しいと自負しています。それは、バルザックを読んだからです。バルザックだけでなく、スタンダールもルソーもユーゴーもゾラも、主要な作品は、すべて読破しています。19世紀とは言えませんが、アンドレジイドも、新潮文庫で出版されているものは、悉く読みました。19世紀のフランス文学のある程度の素養は、19世紀のフランスのアートを理解するためには、必須だとすら考えています。文学を知り、アートを知るというのが、素人の場合の鑑賞の王道だろうと思っています。
 私は、浮世絵は、ある程度、見ています。それは、井原西鶴と近松門座門を、多少(まあ、どちらも5つか6つ)読んでいるからです。たとえぱ、平安時代後期の阿弥陀仏などを鑑賞するために、どうしても、源信の「往生要集」を読まなければいけません。そんなとこまでは、とても手は回らないと、腰が引けてしまいます。
 が、まあ、鏑木清方の絵をより深く理解するために、ここはひとつ、「歌行灯」を読んでおくかと、決心して、成人式の日の休日、音読で「歌行灯」を読みました。「うわぁ、こういう世界だったのか」と、驚きました。「高野聖」よりはるかに、高度で奥行きがあります。この世界に、分けていって行ったら、もう、そのままそっちに行ってしまいそうです。「高野聖」は、もう一度、読み直してみてもいいかなとは思いましたが、自分にとって、泉鏡花は、この二冊で充分だなと、納得しました。

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