自#274「高校を中退して、一番最初にしたかっことは、パーマをかけること。二番目は、ナナハンに乗ること。が、自動二輪の試験に落ちて、ナナハンには乗れませんでした」

「たかやん自由ノート274」

高専には第二外国語として、ドイツ語の授業がありました。何故、ドイツ語がカリキュラムの中に組まれていたのか解りません。中学時代に英語をきちんとマスターしていて、ごく自然に、ドイツ語の履修ができると云った優秀な生徒は、少なくとも、私のクラスにはいませんでした。ドイツ語を第二外国語として置いているので、どうしても英語の比重が軽くなってしまいます。高専卒のエンジニアが、企業の研究室に入って、英語の論文を読むと云ったことは、想定されてなかったのかもしれません。英語の勉強は中途半端になり、ドイツ語は、第二外国語も、ちょっとやりましたよと云う話のネタと云うか、アクセサリーのようなものだったと、想像できます。

 ですが、まあ勉強は、自分でやればいいことです。私は、夏休みに研究社の英和中辞典(研究社の英和中辞典は、今でも使っています。人生で一番役にたった辞書だと思っています。古本屋の百均コーナーでしょっちゅう見かけます。今は、電子辞書の時代ですから、こまめに辞書を引く高校生は、ほぼほぼ淘汰されてしまっています)引いて、ビートルズの何枚かのアルバム(ラバーソウル、リボルバー、アビイロード、サージャントペバーズロンリーハーツクラブなど)の歌詞を訳しました。深くは理解してなかったと思いますが、辞書さえあれば、英語は解ると云う自信はつきました。

 高専の授業で、何を習ったのか、ほとんど覚えてません。製図の課題に苦しめられて、自分はエンジニアには、絶対に向いてないと云う確信は抱きました。何をしたくないかと云うことを考える材料を与えてくれたと言えます。国語で、芥川龍之介の「花火」を読み増した。人生の美しい時期と云うのは、一瞬の花火のようなものだと云った趣旨の短編小説です。Hを始め、同級生たちは「こんな文章を読んで、何の意味があるのか」と、批判していました。私は、製図や化学の実験より、この明らかに不要不急と思われる短編小説の方が、圧倒的に面白いと思いました。製図や化学の実験が、自分にとっては抵抗勢力なので、国語の面白さが、よりフューチャリングされたんだろうと想像しています。もともと、本を読むことは好きでした。一人で、何もすることがないような隙間の時間は、せっせと文庫本(この頃だとヘッセとか)を読んでいました。

 高校の教師になって、少なからぬ生徒が、古典が嫌いだからと云う理由で、数Bを選択してしまう現実に出会って、戸惑いました。数Bを履修すると、その後は数Ⅲ、数Cです。これは、バリバリの理系です。古典が嫌いだから、理系に行く、まあ、人生は、冗談から駒みたいなとこもありますから、こういう選択もありかもしれませんが、古典を嫌いになってしまうのは、残念です。老後の大きな楽しみのひとつが、消えてしまいます。

 若い頃に、古典を読んでも、正直、ちょっと良く判らないんです。コンセプトは、練り上げられてないし、内容的には、結構、すかすかとかと思ったりもします。歳を取って、古典に戻ると、「あっ、こういうことか」と、日本の自然にきれいに溶け込んでいる古典の奥深さが解ります。古典が読めると、間違いなく老後は、ゆたかになります。高校時代に、古典の細かい知識とかを詰め込む必要は、まったくないです。さほど難しくない短歌や徒然草の文章とかが、そこそこ解るくらいで充分です。大切なのは、古典を嫌いにならないことです。が、高校の古典教育も大学受験も、やたらと細かい文法事項を覚えさせ、古典嫌いをつくってしまっています。別段、品詞分解とかはできなくても、日本語ですから、古典は読めます。私が、高専で習った古典の先生は、用言の活用とか、助詞助動詞の使い方とか、品詞分解などのこまかい決まりごとは、一切、教えませんでした。ただ、古文を読んで、ざっくり解説し、生徒が古文の復唱をすることを求めました。それは、つまり素読に近い教え方です。で、エピソードや背景を、こんなの知ってても、知らなくてもどっちでもいいけどみたいな軽いノリで語りました。古典の試験があったかどうは、記憶してません。はっきり覚えているのは、古文の暗唱を求められたことです。奥の細道の序文と、平泉のとこなどを覚え込みました。漢文は、杜甫の春望や、李白の山中問答とか。オプションで、気に入った文章を覚えて暗唱してもいいと言われて、私は、周惇頤の愛蓮説を覚えました。蘇東坡の前赤壁賦とかを覚えた方が、いかにも漢文の暗唱っぽいんですが、三国志は、この頃から、さほど好きじゃなかったんです。ですから、生徒たちの三国志ゲームブームの時も、トレンドに乗れませんでした。

 旧制の女学校では、源氏物語を教えていた筈です。品詞分解などにはこだわらず、アウトラインを教えて、やはり素読のように、生徒に復唱させていたんだろうと思います。多くの十代の女の子は、多分、今でも源氏物語には、はまります。男の子には、源氏物語の文章は、ちょっと無理です。平家物語や太平記のような、軍記ものが、一般的に言って、やっぱり向いていると言えます。

 私は、2年ほど前から、源氏物語を読み始めました。源氏物語は、難しいと云う先入観があって(まあ実際、ひとつのセンテンスの中で、主体がどんどん変わって行きますから、読み慣れないと難しいです)谷崎潤一郎の現代語訳を参照しながら、読み進めつもりでした。最初の数帖は、そういう読み方をしていましたが、途中から、現代語訳を見なくなりました。古典は、日本語です。解らなくても、判るんです。解らなくて判ると云うことが、会得できれば、古典は嫌いにはなりません。そのためには、文章を、ある一定量、暗記するのが、やはり大道です。昔からそういう風に、みんな古典の勉強をして来たんです。高専で、文章を丸暗記させて、王道を実践している先生に出会えたことは、luckyだったと思っています。

 英語も、名文を丸暗記して、覚え込むことが、王道の学習方法だと思います。名文とは、ケネディとか、キング牧師、オバマの演説文のようなものです。Sex and the CityのシナリオとかはNGです。ただ、暗記と云うのは、面白みのない単調な作業ですし、忍耐と根性が必要です。暗唱をする能力は、普通の人だったら、誰にだってあります。ただ、忍耐と根性は、世代が下がるに従って、逓減しています。私は、まあ普通に根性はあると、自分では思っていますが、私の母親は、「オマエには根性がない」と、しょっちゅう言ってました。私は、母親には、徹底的に反抗する息子でしたから、この母親の心ない言葉に傷ついてヘコんだりはしませんでしたが、客観的に見て、私の母親の方が、私よりもずっと根性はありました。母親よりも、母親の母親、つまり祖母の方が、はるかにすごかったようです。その昔の人って、どんだけ根性あったんだよ、それってありすぎてヤバいだろうと引いてしまいます。ところで、私は結局、高専を中退しました。「これって、やっぱり根性がなかったから?」などと、自問自答したりはしませんが、母親は根性がないと思っていましたし、親類のおばさんには、頭がおかしいと言われました。根性がない、頭のおかしい私が、一番最初にやりたいことは、パーマをかけることでした。パーマは、退学した翌日にかけました。次にしたいことは、ホンダのCB750cc(ナナハン)に乗ることです。が、自動二輪の試験に落ちて、原付の免許しか取得できず、ホンダの50ccのカブにしか、乗れませんでした。ナナハンにも乗れず、髪はパーマをかけて、大阪のおばちゃんみたいになって、将来性が、取り敢えずまったくない16歳の無職の少年でした。

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