自#444「ハンニバルは歩哨の傍の地べたの上に、兵士と同じように、粗末な戦闘帽子を被って眠ります。どこでも、平気で眠れるというのは、やはり、ちょっと憧れてしまう境地です」

         「たかやん自由ノート444」

 ローマは、BC272年にタレントゥムを占領して、イタリア半島の統一を完成します。BC264年にシチリアをめぐって、カルタゴと戦争を始めます(第一回ポエニ戦争)ローマは、アフリカ遠征軍を送ります。カルタゴの東方、シチリア海峡に突き出しているボン岬に上陸します。上陸したローマ兵たちは、略奪に夢中になります。共和政、華やかなりし頃のローマの正規の軍隊ですが、時には略奪も大目にみないと、兵士は反乱を起こしてしまいます。武器を持っている兵士をコントロールするのは、通常の政治・経済の運営とはまったく違う、難しさが存在します。ローマ軍が、略奪で攻めるための時間を無駄にしている間に、カルタゴは、スパルタ出身の隊長を中心に、傭兵軍団を拵えます。ローマとカルタゴの兵員数は、共に一万五千人くらいで互角だったんですが、カルタゴ軍は、象の大群で、ローマの騎兵と歩兵を踏み潰しました。ローマ軍は、壊滅状態となり、ボン岬に逃げ帰ったのは、二千名くらい。救出に来た船に乗り込んで、帰国の途に就きますが、海上で暴風に遭い、船は難破します。何とか生き延びた司令官は、敗戦の責任を問われ、獄死します。
 元々、ローマは船は持ってなかったんですが、捕獲したカルタゴの五段櫂船をモデルにして船を造ります。漕ぎ手の訓練も始めますが、船の操作に不慣れなローマは、船の舳先を相手にぶつけて破壊するという、伝統的な海戦のやり方では、カルタゴに太刀打ちできません。そこで、長さ10メートル、幅1メートルの手すりつきの一種の梯子(はしご)を作り、その先端に鉛製の鳥のクチバシに似た鉤(かぎ)を取り付けて、カルタゴの船に接近したら、この鉤を相手の船の甲板に打ち込み、カルタゴの船に乗り込んで、白兵戦で闘うという戦術を生み出しました。この戦術を使って、海戦では勝利します。
 カルタゴの陸軍(傭兵軍団ですが)は、そうダメージは受けてませんし、まだ充分に戦える状態だったんですが、カルタゴの元老院は、あっさり負けを認めて、第一回ポエニ戦争は、終了します。シチリアを失っても、西地中海を押さえていれば、充分に国家運営は可能だと判断したわけです。
 第一回ポエニ戦争終了後、シュフェテス(執政官)に就任したハミルカルバルカ(ハンニバルの父親)は、スペイン攻略に乗り出します。スペインの鉱山を開発して、カルタゴの経済力を回復させます。ハミルカルバルカは、水かさの増した川を渡っていた時に、溺れそうになっている部下を救出しようとして、水死します。息子のハンニバルが、あとを継ぎます。
 アレクサンドロスに憧れていたハンニバルは、スペインから南フランス、北イタリアに至る大帝国を築きたいという野望を、多分、抱いていたと推測できます。ハンニバルは、まずサグントゥムを占領し、その後、歩兵五万人、騎兵九千人、四十頭の象も引き連れて、イタリア遠征に向かいます。南フランスのガリア人は、ローマに反発していたので、簡単に服属させることができました。ハンニバルは、アルプスを越えて(どのポイントを越えたのかは解ってないそうです)ポー川の流域のロンバルディア平野で冬を越します。が、スペイン南部、北アフリカの温暖に慣れた兵士や象たちには、北イタリアの冬の寒さは、厳しいものでした。象は、一頭を残して、全部、死にました。ハンニバルも、結膜炎にかかって、片方の目を失います。が、ハンニバルの士気は、下がってません。隻眼(せきがん)になって、ローマに対する復讐心は、より燃え上がったとさえ、言えるのかもしれまんせん。
 トラシメヌス湖畔の戦いは、濃い霧の中の要所要所に伏兵を置いて、進軍して来たローマ軍に襲いかかります。ローマ軍は、執政官も含めて、ほぼ壊滅しました。
 南イタリアのカンネーは、ローマ有数の穀倉地帯です。ローマ軍の食糧としての小麦がストックされていました。ハンニバルは、それを奪取しようとしました。ローマ軍は、八万の歩兵と、六千の騎兵を率いて、押し寄せて来ました。カルタゴ軍は、四万の歩兵と、一万の騎兵です。カルタゴの陣立ては、中央に半月形の歩兵を布陣して、中央の突出部に、ガリアから連れて来た忠誠心が余り期待できない、寄せ集めの兵を置き、その両側にアフリカから連れて来た古強者を配置します。敵の中央突破を予想しての布石です。ローマ軍は、予想通り中央を突いて来ました。寄せ集めの弱兵は、ひとたまりもなく後退します。勢い込んだローマ兵は、ハンニバル軍の中になだれ込みます。そこで、作戦通り、両側にいたアフリカ歩兵と騎兵が、ローマ軍の退路を包み込んだので、ローマ軍は、袋のネズミになります。これが、ハンニバルが得意とする、「戦力を非戦力化する」作戦です。戦力は、固まってしまってダンゴになったら、自滅します。この戦いで、ハンニバルは、ローマ兵を7万人殲滅したと言われています。
 カンネーの敗北後、ローマは、ハンニバルとの正面衝突を、徹底的に避けるようになります。持久作戦で、awayのハンニバル軍が、じわじわと衰退して行くのを待ちます。ローマの歴史家のリヴィウスさえ
「ハンニバルくらい、信頼されていた指揮官はいなかった。彼くらい危機に立ち至っても、勇気を持ち続けられる者はいなかった」と、ハンニバルを絶賛しています。
 ハンニバルは、食事も質素で、飲み過ぎたりもしません。忙しい時は、徹夜で仕事をします。仕事の隙間に休息をしますが、ベッドで寝たりはしません。歩哨の傍の地べたの上に、兵士と同じように、粗末な戦闘帽を被って眠ります。進軍する時は、アレクサンドロスと同じように、先頭を切って進み、退却をする時は、常に殿(しんがり)を受け持ちます。迷信の類いは、一切、信じていません。神も怖れてません。
「信仰心はまるでなかった」と、リヴィウスは記しています。信仰心がまるでないということは、つまりAnarchyだということです。なるほど、そうか、アレクサンドロスとは、そこが違うのかと、思ってしまいました。アレクサンドロスは、たとえ戦場で斃れたとしても、神の栄光に包まれているような雰囲気がしますが、ハンニバルは、ロンドンのスラム街で、何らセンチメンタルな雰囲気もなく、何ごともなく、横死できるような、失うもののない強さを感じてしまいます。

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