自#564「本当にしんどい時に、聞ける音楽は、そうそうないと思います(多分、あっても二曲くらい)。本当に辛い時に、ぱっと見て気持ちを和らげることができる推しの一枚の絵があると、人生は、かなり、楽になります」
「たかやん自由ノート564」
私が中高時代に過ごしたキリスト教の寮には、画集は一冊も置いてませんでした。本棚もほとんどなくて、棚にはバロックや古典派、ロマン派のLPレコードが並んでいました。寮の玄関、廊下、階段の踊り場の壁にも、絵を飾ったりはしてません。カルヴァン派寄りのプロテスタントの寮だったので、偶像に繋がる絵画などは、基本、NGだったんだろうなと推定しています。
絵は、主に県立図書館で見ました。中高時代、県立図書館まで、徒歩10分くらいのとこに住んでいました。20代の後半を過ごした、四万十川の河口の町にも、ちっちゃな図書館はありましたが、画集、美術集の類いは置いてませんでした。高校時代は、セザンヌという喫茶店にも通っていました。そこにも画集がありました。今は、スタンダードな画集、美術集を見るとすれば、武蔵野中央図書館と三鷹図書館の両方を利用することになります。前者は徒歩30分、後者は徒歩60分くらいの時間を要します。絵を見る環境として、中高時代が、一番、恵まれていて、税金をまだ一円も払ってない中高校生だったのに、県立図書館を、充分に活用させてもらいました。どういう環境に住むのかということも、孟母三遷ではありませんが、やはり大切なことです。
I書店という古本屋が、郷里にあって、この古本屋には、小1から通っていました。ライブハウスに初めて入ったのは中1の秋です。ライブハウスよりも、古本屋通いの方が、6年以上、早いんです。老後になって、私は古本屋通いと本に戻ってしまいましたが、それは、つまりルーツに還ったってことだと、自覚しています。
高2の春だったと記憶していますが、I書店で、ロマンロランの「ミレー」を買いました。高校時代は、知的教養というものは、生きて行くために必須のものだと、考えていました(今は、まったく考えてません。私の女房は、テレビのヴァライティ番組と、スポーツ番組ばかり見ていて、知的教養は、ほぼ皆無ですが、どう考えても、私よりはるかに幸せに生きています。知的教養と、幸・不幸とは、まったく無関係です)。ロマンロランなどの知的な教養小説は、どしどし読破しなければいけないと、信じ込んでいました(実際は、19世紀の小説だけで手いっぱいになって、ロマンロランあたりは、超手薄になってしまっています)。
私が買った岩波の「ミレー」の文庫には、ミレーの作品のモノクロの写真が何枚か掲載されていました。人口に膾炙している「落ち穂拾い」「晩鐘」「種まく人」、四季シリーズの「春」などです。当時、私は、画集を一冊も持ってませんでした。レコードは100枚くらいは持っていて、それと安物のレコードプレーヤー、ソニーのイレブン(トランジスタラジオです)あたりが、私の財産でした。当時、画集は高価で、高校生が気軽に買えるリーズナブルな値段では、ありません。I書店でも、画集の古本は、私が知る限り、見たことはありませんでした。自分が所有していて、ポケットに入れておけば、いつでも絵が、見られると考えると、ちょっとhappyな気分に浸れました。ただ、ミレーが、そこまで好きかと聞かれると、別にそうでもないと、正直に答えざるを得ません(今も基本は同じです)。どうせなら、ミケランジェロとかセザンヌの写真絵を、最初に手に入れたかったと思わなくもないです。が、まあ誰の人生も、そう思い通りには展開しないものです。
額に入っているミレーの「晩鐘」のレプリカを見たのは、20代の後半です。当時、私は、四万十川の河口の土木事務所に勤めていました。地権者の自宅を訪問して、工事をするための土地を購入することが、私の仕事でした。仕事の大半は、地権者とのコミュニケーションです。コミュニケーションの量が多ければ、だいたい土地は購入できます。少ないと、承諾してくれません。どれだけ地権者と喋れるかということが、問われています。もっと正確に言うと、どれだけ地権者に喋らせることができるかが、用地取得の鍵だと言えます。
仕事の内容は、一見、都会のデベロッパーに雇われた地上げ屋に似ていますが、スタンスはまるで違います。そこは、やはり公務員です。違ってないと逆にヘンです。仕事が成功しても、or notでも、私の給料もボーナスの額も変動しません。仕事が失敗続きでも、馘首されたりもしません。そこは、地方公務員です。身分は法で守られています(いつ雇い止めが襲って来るか解らない、非常勤講師とは、立場がまるで違います)。
土地収用委員会に付託して、強制代執行も辞せずの姿勢で臨んだのは、本庁に戻って来て手がけた一件だけです(20年来の懸案の大きな事案で、これの決着をつけて、私は公務員をリタイアしました)。土木事務所時代は、無理くり買い上げるという姿勢ではなく、いろいろ喋った挙げ句、最後、承諾してくれたら、購入する、納得してくれなければ、購入できたとこから先に工事を始めて、あとは、自分の後任に引き継ぐというスタンスでした。私の基本姿勢は、土地を購入することが絶対の目標ではなく、相手とコミュニケーションをして、いろいろと話を聞くことが、まず第一だと考えていました。
地権者と喋るのは、世間話です。路線価や不動産鑑定士の評価額とか、建物移転の場合の積算の根拠と言った風な話は、買収が決まってからします。そこに至るまでは、単なる、世間話です。私は授業の前フリで、世間話をしますが、基本、公務員時代も、教員になってからも、似たようなスタンスで仕事をしていると言えます。
ミレーの「晩鐘」を居間の壁に飾ってある家がありました。そこは、おばあちゃんと、娘夫婦が住んでいる農家でした。地権者はおばあちゃんです。「ミレーの絵は、好きですよ。ウチは農家ではなく、農作業の経験もありませんが、いい絵だと思います」、まあそんな前フリで話を始めるわけです。で、「自分の故郷は漁村で、朝だと、こういう光が差し込みますが、夕方はもっと暗いです」などと気楽に喋っていると、相手も、自分のことを話してくれるようになります。「晩鐘」の家のおばあちゃんは、先の戦争で、息子さんを亡くしたと言ってました。で、気がつくと、おばあちゃんの目には、涙が溜まっているんです。その涙目を見てはいけないと思って、必死になって、「晩鐘」の絵をlooking atしたことを、はっきりと覚えています。生きていれば、息子さんは、帰国して、ミレーの農夫のように、畑で仕事をされていたわけです。戦争で息子を亡くしたとカミングアウトされたら、慰めの言葉とか、かけようがないし、気きいたセリフも浮かびません。ただ、黙ってlisten toする以外に、対処の仕方はないと思います。絵が飾ってあれば、そっちに逃げられます。自分の力では、とても手に負えなくて、逃げたくなるような事案は、いくらでもあります。
高校生と、落ち着いて喋っていて、彼女or彼の抱えている闇が深すぎて、自分には到底、抱えることも対処することもできないと、感じることは、これまでに、何回(相当多いです)もありました。そうい時、壁にセザンヌのサントヴィクトワール山のレプリカが掛かっていたら、そっちに逃げられます。まあ、これだけに限りませんが、絵は、生涯の伴侶かなという気もやっぱりします。
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