自#258「漱石の文章はpicturesque、絵画的で、すばらしいです。が、音楽はまったく聴かない人でした。音楽を聴かない人が、幸せかどうかは、音楽を聴く私には、判断できません」

 「たかやん自由ノート258」

SOMPOひまわり生命CEOの大場康弘さんのインタビュー記事を読みました。インタビューのタイトルは「リーダーたちの本棚」です。主に本について質問し、複数の本(5冊)について語ってもらっています。本を普通に読む人は、1年間に、平均して100冊くらい(3、4日で1冊くらいのペースです)は、読むと思います。大場さんは、現在、55歳。5、6歳から本(最初はもちろん絵本)を読み始めたとしたら、これまでに、5000冊くらいはお読みになっています。私は、大場さんより11歳上ですから、過去6000冊くらいは読んでいます(マンガを含めていいのであれば、もっと多くなります)。
 5、6千冊の中から、5冊をchoiceすると云うのも、難しいだろうなと思ってしまいます。人間は、そうは言っても、日々、変化します。別の日に、大場さんにインタビューしたら、5冊が全部、総入れ替えになっていたと云うことも考えられます。インタビューする人の気質、その日の天候、健康状態、女性だったら生理じゃないかどうか、と云った風なことで、大きく変動します。AIは、inputされた情報と、out putする時の条件が変わらなければ、大雪であろうと、嵐が襲って来ようと、大震災が発生しようと、データーを取り出す方の人間性が、どんなにヤバくても、同じ結果がでます。AIが人知を超えるかどうかの議論は、取り敢えずさて置きますが、AIが、人間の頭脳を代替することは、できません。
 大場さんがこの日、選んだ一冊目は、ユニクロCEOの柳井正さんがお書きになった、「経営者になるためのノート」です。おそらく、柳井さんは、経営者としての自分のあるべき姿を見つめ直し、姿勢を整えるために、この本をお書きになったんだろうと、想像しています。私は、35年間、フルタイムで、都立高校に勤務していましたが、教師とは如何にあるべきかと云った風な教師論のノートを書いたことは、一度もありません。教師として、腹をくくったと云う自覚もなく、35年間、わさわさして来たと言われても、反論できません。ただ、教師としてではなく、人間としてのある種の自覚はありましたし、学校現場で、自分がブレたことも、一度もなかったと自負しています。根幹は、やはり人を信じることです。生徒を信じ、自分を信じ、余力があれば、同僚の先生や管理職を信じるって感じです。ベースは、孟子の性善論です。私が仕事をしていたのは、学校です。人(生徒も教師も)が成長して行くことが、学校の目的です。が、経営となると、第一の目的は、利益を上げることです。いくらきれいごとを言っても、この大原則は動かせません。「経営者になるためのノート」は、ユニクロの幹部たちにとって、必携です。経営が行き詰まれば、幹部であろうと路頭に迷います。本人は無論のこと、家族や部下の社員たちの生活がかかっています。できれば頑張る、やれたらやる、余力ができたらchallengeする、と云ったレベルのヤワな覚悟では、会社は潰れます。幹部達が一丸となって、本気を出して、一つの目標に取り組む、まあ、それだけで(細かいテクニックが会得できてないとしても)会社は回って行きます。大場さんも「経営者になるためのノート」を、初めて管理職になった社員に、メッセージを添えて、プレゼントしているそうです。CEOから、わざわざ昇進祝のメッセージをもらう、それだけでも、企業社会ですと「人生意気に感ず」ってことになるのかもしれません。
 大場さんが推薦している2冊目は、立川談春さんの「赤めだか」と云うエッセー本。企業経営のエキスパートから、落語家へと、何ごともなく推移する、その自然なツンデレ感が、何とも言えない感じです。この本は、17歳で天才落語家の立川談志師匠に入門して、その後、経験した修業の苦労話のようです。立川談志は、テレビで見ただけでも、超絶ヤバい大天才と云う雰囲気が伝わって来ます。現役の芸人さんで言えば、全盛期のビートたけしさんって感じです。が、全盛期のビートたけしさんを超える芸人が、たけし軍団から出て来ないのと同じで、立川談志の弟子からも、師匠を超える弟子は、出て来ません。自分を超えられないことは、ビートたけしさんだって、立川談志師匠だって、判っていた筈です。判っていて、弟子を取って育てる、そこにまあ矛盾があります。時に、むちゃくちゃな疾風怒濤があったりもしたと思います。大天才の傍にいた人だけが知っているfantasticな魅力が、著書を通して読み取れるんだろうと思います。
 大場さんがpushした3冊目は、小林信彦さんがお書きになった「日本の喜劇人」。エノケン(榎本健一)ロッパ(古川緑波)から森繁久彌、トニー谷、クレイジーキャッツ、コント55号、ビートたけし、タモリと云った大物喜劇人の変遷をまとめてあるそうです。この本の要諦を、ひとことで言うと、歴史を学ぶことの大切さ、意義を知ると云うことだと、私は想像しています。私は、今年のザ漫才も見てませんし、お笑い第七世代についても、ほとんど知りません。新聞や雑誌は読むので、取り敢えず、名前くらいは知っています。お笑いであっても、音楽であっても、過去の偉大なレジェンドの時代があって、後進の人たちは、上の世代の財産を引き継いで来ていると云う風なことは、間違いなく言えると思います。ただ、問題なのは、その財産が、目減りしていることです。自分が知っている範囲内でも、ビートたけしさんやさんまさん、島田紳助さんの若手時代と較べたら、今の若手は、二回り以上、小粒になっていると云う印象を受けます。歴史は、必ずしも輝かしい未来に向かって着実に進化し、進歩していると云うわけでもないと云った風な、大きなテーマに敷衍していいかどうかは判りませんが、過去の時代が偉大であれば、それを学ぶことの重要性は、痛感すべきかもしれません。過去を学べないと云う意味で、本を読まない人は、やはりある種の限界があるとは思ってしまいます。もっとも、幸せかどうかなどとは、まったく無関係です。そこら中、限界だらけの人だって、幸せな人はいっぱいいます。私の女房は、本らしい本は、多分、人生で1冊も読んだことはないと思いますが(マンガは嫌と云うほど読んでいます)どう考えても、私より、はるかに幸せです。
 大場さんが推薦する4冊目は、藤原新也さんがお書きになった「印度放浪」、5冊めは漱石の「三四郎」。この二つは、さすがに私も読んだことがあります。今まで出て来た3冊は、おそらく知る人ぞ知るみたいな著書だと思いますが、この2つは、人口に膾炙している名著です。藤原新也さんは、写真家です。が、写真の学校は出ていません。文学部の文芸科で小説の書き方を習わなくても(どっちかと云うと習わない方がいいと思いますが)小説家にはなれますし、写真であれ、映画であれ、音楽であれ、アニメであれ、アートはセンスと才能がモノを言う世界です。学校教育のカリキュラムが、関与できるものではありません。
 藤原新也さんが、インドに行ったのは1970年頃です。当時のインドは、物質的に貧しく、不衛生で、川には死体が流れていたりします。が、死と隣り合わせの生の輝きがあり、命の実感があり、精神の豊饒さがあることを痛感し、日本に帰って来ると、物質的にゆたかであっても、非歴史的で空しく、滑稽で空虚な景色が広がっていると、藤原さんは感じます。50年くらい前に書かれた著書ですが、今も、本質は変わってないと思います。
 「三四郎」は、古典です。漱石の文章は、絵画的で、情景が鮮やかに浮かびます。漱石は、絵は好きでしたが、音楽はまったく聞きませんでした。音楽を聞かなかったので、ピクチャレスクな絵画的な文章が書けたってとこも、あるのかもしれません。もっとも小説を書くことが、幸せかどうかは、ちょっと判らない感じです。小説家と言うのは、だいたいにおいて、幸せだとは、おそらく、言えないだろうと私は想像しています。

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