創#701「インターネットが登場した時、なりすましが急増するだろうと想像しました。自分も一度くらいは、なりすましを、やってみたいという気持ちはありますが、それをやると、アイデンティティに瑕疵ができるので、さすがに、実行はしません」

       「降誕祭の夜のカンパリソーダー445」

「京都と奈良は、先の戦争で焼けてない。もっとも京都だと、先の戦争というのは、つまり応仁の乱のことだが」と、私が言うと
「応仁の乱は聞いたことがあります。その乱の結果、室町将軍の権威は失墜し、戦国時代に突入した筈です」と、関谷くんは、せいいっぱいの日本史の知識を繰り出して説明した。
「応仁の乱は15世紀半ば過ぎくらいだ。落雷とか、火事で家が焼けることはあるが、お寺や神社は、古いものが残っている。空襲で焼けて、その後、拵えた街並みとか、安っぽくて威厳がまるでない。その点、京都は風格がある。この街で、学生時代を過ごすことができるのは、luckyで貴重な体験だ。うかうか過ごさないで、お寺巡りとかもちゃんとした方がいい」と、私は関谷くんにアドバイスした。
「大学がミッション系ですから、少なくとも、自分の周囲で、お寺巡りをしている学生は、いません」と、関谷くんは、返事をした。
「親友のHが通っているR大は、真宗系だが、確かにHもお寺巡りなどはしてない」と、私が洩らすと
「京都に住んでいる学生だから、当然、お寺巡りをすると考えるのも、正直、原理主義的です。東京に住んで、東京の大学に通っているのに、今の時代の流れに、まったくもって、全然、乗れてません。万一、京都のバーで圭一さんがバイトをするとして、お客さんに『先週、南禅寺と五山を回りました。南禅寺は、確かに格式があって、五山の上だと、痛感しました』などと、話しかけたりしたら、お客さんは返答できず、戸惑ってしまいます。もっと、ウケそうなネタを振るべきです」と、関谷くんは、私に要望した。
「今、流行っている紅茶キノコとか、自分にはイミフだし、広島カープは初優勝しそうだが、自分は野球には、まったく興味がない。セブンスターの販売量が、ハイライトを抜いたらしい。これは、ちょっとくらい引っぱれるネタかもしれない」と、私は関谷くんに伝えた。
「セブンスターと、ハイライトとは、どこがどう違っているんですか?」と、煙草を吸わない関谷くんが訊ねた。
「オレももう、煙草は原則吸ってない。かすかな記憶に基づく説明になってしまうが、ハイライトの方が、切れ味がシャープだ。セブンスターの方がマイルドだな」と私が言うと
「切れ味の鋭さよりも、マイルドな口当たりを求めてるってことてすね」と、関谷くんは応じた。
「自販機で、カップに入っている日本酒を売ってたりするが、自分が知る限り、ことごとく全部、甘口の日本酒だ。ウチの田舎は、ちょっと特殊なのかもしれないが、男達は、普通、甘口の日本酒は飲まない。灘や伏見の甘口を飲んでいる人を、見たことがない。オレもそうだが、飲むのは地酒の辛口だ」と、私は関谷くんに教えた。
「煙草も日本酒も、吸いやすい、飲みやすいマイルド志向ってことですね。五山ネタよりは、こっちの方が、話題に乗れます」と、関谷くんは頷きながら言った。
「まあしかし、客が興味、関心を持つようなネタを探すというのは、正直、自分らしくない。職を失ってもいいから、自分が興味関心を持つテーマで、喋りたい。最近の話題だと、和文ワープロの完成に興味を持った。自分は、字が極端に下手だ。日記なども、一応、書いているが、3、4日経過すると、自分の書いた文章が、字が下手過ぎて、読めなくなってたりする。手紙は、相手に読んで貰わなきゃいけないから、ゆっくりと、とんでもなく丁寧に、時間をかけて書いている。和文ワープロが、リーズナブルな値段になれば、手に入れたい」と、私が言うと
「和文プーブロは、幾らなんですか?」と、関谷くんが訊ねた。
「現在は、1000万円らしい」と、私が値段を教えると
「そこらの車よりはるかに高いじゃないですか。幾らなったら買うんですか?」と、関谷くんが聞いた。
「今、清書用で使っているのは、モンブランの極太万年筆だ。これに、セピアのインクを入れて使っている。この極太が、アメ横で、一本、五万円だ。モンブラン、四本分くらいの価格になったら購入する」と、私は関谷くんに伝えた。
「二十万円だと、1000万円の50分の1の値段じゃないですか。ワープロは、半導体とかのハイテクのパーツを使用している筈です。20万円になるのは、20年後とかじゃないですか」と、関谷くんは言った。
「和文ワープロの需要が増えたら、値段は下がって行く。1000万円だと、官公署とか大企業しか購入できない」と私が言うと
「和文ワープロですから、外国に輸出することも不可能です。それに、論文とかは、英文で書く必要があります。英文タイプライターは、現在、5万円以下で手に入ります。和文ワープロが、日常生活の中に入って来ることは、考えにくいです」と、関谷くんは反論した。
「まあ、そうすると、書道なり硬筆なりを習いに行って、自分の字を矯正することになる。字が下手なのは、嫌というほど痛感しているが、この下手さが個性だという気もする」と私が言うと
「でも、和文ワープロで、きれいな文字を書いてしまったら、字を矯正することになるんじゃないですか?」と、関谷くんは突っ込んで来た。
「自分は、ワープロを使って、ダイレクトに文字を打つつもりはない。文字は、きちんと手で書く。自分の手で原稿を書く限り、個性もアイデンティティも担保される。ワープロで清書するのは、まあ、何というか、仮面を被るようなものだ。通常の伝統的な明朝体の仮面って感じだ。女の子だって、化粧をして、自分の仮面を、毎日、拵えている。最近、流行しているコスプレというのは、つまり全身に仮面を被るようなエンタメだろう。『誰もがすなるコスプレなるもの、われもしてみむとて、ワープロするなり』って感じだな」と、私が言うと、
「つまりワープロの字は、やはり仮面です。そうすると、やっぱり嘘が混じるんじゃないですか。仮面を被るというのは、なりすますということです。なりすましたら、誰だって、違う人間になろうとして、嘘をつきたくなります。そのヘンは、どうなんですか」と、関谷くんは突っ込んで来た。

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