自#713「自力(じりき)では、やはり限界があります。それに、早く気がついたもの勝ちってとこも、きっとあります」

   「たかやん自由ノート713」(自己免疫力59)

五木寛之さんが、友人の選挙の応援演説に行った時、「二度と飢えた子供たちの顔は見たくない」とポスターに書かれたスローガンを見て、「ぼくは二度と飢えた大人たちの顔は見たくない。それが本音です」と言ったそうです。五木さんは、旧日本帝国の植民地であった朝鮮北部で敗戦を迎え、旧ソ連軍の軍政下で難民として過ごしています。12、3歳くらいの年齢の頃です。12、3歳というのは、男の子にとって、人生でもっとも、sensibleで、sensitiveな時代です。とんでもなく感動することもありますが、取り返しがつかないほど、傷つくこともあります。おそらく、五木さんは、その両方を体験されています。
 敗戦と引き揚げの極限状況の中で、子供にとって大人は、恐ろしい存在だったそうです。子供たちに同情して、朝鮮人や旧ソ連兵がくれた餅や黒パン、芋などを、強い力を持った大人たちに、しばしば奪い取られてしまいます。「飢えた大人ほど怖いものはない」と、骨身にしみて思い知ったようです。
 戦後生まれの私は、「欠食児童」とかではありません。母一人子一人で、貧乏だったんですが、食えないってことは、ありませんでした。一汁二菜くらいの質素な食事で、おやつやデザート、ジュースなどとは、まったく無縁の食生活でしたが、とにかく、三食、普通に食べていました。私の母親に子供に対する愛情があるとは、爪の先ほども感じたことはなかったんですが、三食きちんと食べることができて、雨露をしのげる四畳半の狭いアパートで、一応、平穏に暮らしていましたから、母親は、親としての最低限の義務は果たしていたと推定できます。
 その頃の大人たちが、子供に対して、優しかったとか親切だったってことは、ほぼほぼなかったと記憶しています。私を可愛がって、親切にしてくれたのは、私の伯母と、若くして死んだ叔父だけです。親類は、とんでもなく沢山いましたが、基本、みんな子供には無関心でした。大人の男性で、子供に親切だとしたら、多くの場合、それは危ないおやじでした。もし、祖母が生きていれば、親切にしてくれたのかもしれませんが、祖母は私が生まれる前に逝去していて、実家には無愛想で、絡みにくい、祖父だけがいました。
 私が子供の頃、大人たちは、子供に優しくしたり、親切にしたりするヒマも余裕もなかったと推定できます。取り敢えず、ファミリーのメンバーを食わせて、恥ずかしくないレベルで、冠婚葬祭のイベントを実施するくらいで、多分、手いっぱいでした。子供は基本ほったらかしで、放置されていました。今、考えると、逆にそれが良かったんだろうなと、改めて思ってしまいます。
 今住んでいる自宅の近所にグランドがあって、休みの日は、少年野球の試合などを、しょっちゅうやっています。子供の数と同じくらいの人数の親が、観戦しています。子供の遊びに(もっとも少年野球は純粋な遊びとは、言えないのかもしれませんが)親が、絡んだり、関与したりといったことは、私の子供時代には、考えられませんでした。子供は、子供だけで、ルールを決めて、勝手に遊んでいました。
 大人たちが飢えて、子供の食べ物を奪い取るといった殺伐な状況では、無論、なかったんですが、大人たちというのは、胡散臭(うさんくさ)くて、今ひとつ信用できないとは思っていました。大人というのは、自分たちとは違う考え方や感性を持った人たちで、自分は、ああはなりたくないなと、子供の頃から、漠然と考えていました。
 私は、子供には基本、無関心です。三人、子供がいますが、子育ては、妻に全面的にお任せでした。そろばん塾に迎えに行った次女のみ、小学校時代の6年間、週三回、自宅まで歩いて帰る時に20分くらいお喋りをしましたが、それが、私の子育てのすべてかもしれません。
 高校の教師ですから、高校生には関心があります。高校生が、壁にぶち当たって行き詰まってたりしたら、多少なりとも、何らかのサポートをしてあげたいとは思っています。が、高校生くらいの微妙な年齢の若者を、サポートするのは、正直、そう簡単なことではありません。お互いに切磋琢磨して、サポートしあえるコミュニティを拵えて、そのコミュニティを円滑に運営する、そういうスタイルで、フルタイムの教職の35年間を、やり抜いたと自己分析しています。コミュニティというのは、つまり自分が面倒を見ているバンドの部活です。ごくまれに、自分の担任クラスだったりもしたんですが、クラス運営の方は、だいたいにおいて、失敗しています。そこそこ、何とかなったのは、20年くらい前のK高校の担任時代だけです。
 五木さんは戦中派です。戦中派は、敗戦後、価値観を180度ひっくり返されて、世の中や社会に対して、完膚無きまでの不信感を、多分、心の奥底でお持ちになっています。五木さんだって、この世は苦しいものだというネガティブな世界観を、おそらく抱いています。ドストエフスキーは、「悪魔がもしいなけれは、創り出さなければいけない」と看破したわけですが、ネガティブな根底があるからこそ、ポジティブなものを目指して行けるってとこも、きっとあります。戦後の輝かしい復興は、敗戦で地獄の底を見た人たちのその後の猛烈なエネルギーの放出と、奮闘、努力によってもたらされたものだと言えます。戦後80年近く平和を享受し、経済的にもゆたかになりました。が、平和で経済的にゆたかな我々が、戦争と貧困に苦しめられた人たちと比較して、happyになったとは、一概には言えません。
 五木さんは「世間虚仮」と末期の言葉を言い放った聖徳太子を引き合いに出して「人間の苦しみの総量は、文明の進歩と関係なく一定だ」と、「大河の一滴」の中で、語られていました。エネルギー保存の法則と同じように、苦しみの総量保存といった風な結論を、お出しになったわけです。
 私の心は、萎えたりしません。この世が苦しみの連続だとも考えていません。「世間虚仮」だって、それはつまり、差別がないってことだと、前向きに受け止めています。私は、モノゴトを、何事も、調子よくプラス思考に切り替えることができます。ある意味、要領のいい、ずる賢い人間です。マイナス思考である必要は、まったくありません。わざわざ自ら好んで、不利益や不幸を求める必要はないと、普通に考えることができます。
 私はアートが好きですから、古代のアートも、近代のアートも、別段、区別せずに見ます。今から2500年くらい前の彫刻にも、20世紀のロダンやマイヨールにも、心を動かされます。私の人間性の何が、どのようにアートに反応しているのか、そこのメカニズムは解りませんが、2500年前とか、古代ヨーロッパとかの時空は、立ちどころに消滅して、今、まさにそこにあるアートに直面できます。2500年前の人間も、現代の人間も、本質、変わってないと信じられます。生きている社会や環境は、これだけ変わっているのに、人間性の本質は、変わってないんです。社会の環境などには惑わされず、人間性の本質に寄り添いながら、生きていくのが、一番、正しい生き方だろうと、simpleに思っています。

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