自#624「昔、アルハンブラ宮殿のアラベスクの模様を見て、『うわぁ、コレって一体、何なんだ』と、頭の中に『?』がいくつも並んだんですが、令和3年の終わりにやっと、『?』の謎が解けたような気がしました」

      「たかやん自由ノート624」(ゴシック式⑭)

 今、一番、トレンディなイケてる進取の精神に富んでいる企業は、STEAM人材を求めているそうです。STEAM人材は、Science、Technology、Engineering、Arts、and Mathematics Human Resourcesの略です。STEAM人材を育てるために、多くの先進的な学校では、STEAM教育を推進しているわけです。
 私は、アートを教育のために役立てようとは思ってません。そういう、何かのためにと云う功利的な動機で取り組んでしまうと、義務的な課題、負荷になってしまいます。音楽を、無理くり教え込むことは、まったくもって無意味です。同様に、アートを学校教育のカリキュラムの中に取り込んで、必履修科目にしたりするのも、個人的には反対です。私のような、好き勝手に何でも自由に展開しようとする、わがままな教師が、ほぼ趣味的にアートの話をちょいちょいして、作品もさりげなく見せ、naturalな状態で、ごく一部の生徒の興味関心を掻き立てることができたら、それで充分だろうと、想像しています。
 ただ、まあアートを学べば、役に立ちます。アートは、役に立たない、不要不急の親玉のように普通は、考えられていますが、実際は違います。音楽と(美術系)アートと、どっちが役に立つかと言えば、それは圧倒的にアートの方です。音楽の基本は、listening toです。アートの基本はlooking at かwatchingです。つまり、音楽は聞き、アートは見ます。人間が把握する情報の9割は、looking at or watchingによって得られます。「人は見た目が9割」と言われていますが、それは、見た目の情報量が、圧倒的に多く、その圧倒的に多い情報によって、人は何ごとも判断してしまうからです。でなければ、広告ビジネスは成立しませんし、民放テレビなども、存在し得なくなります。
 歳を取ると、目も耳も、劣化し、少しずつ不自由になります。目が見えなくなるのも、耳が遠くなるのも、どっちも辛いです。が、どっちを最後まで維持し続けたいかと言われたら、それは目の方を優先します。視覚を通して情報が入って来る限り、この世界を、きちんと認識し続けられるという自信があります。目が見えなくて、聞こえるだけでは、この世界の半分は、闇に閉ざされてしまいます。生まれた時から、目が見えないのであれば、そういうものだと、納得して生きて行けると思いますが、歳を取って、目が見えなくなって、自然の風物も、アートも見られなくなるのは、相当、辛いだろうなと、容易に想像がつきます。が、人生、何が起こるか分かりません。突然、目が見えなくなることも、充分、考えられます。
 四国の田舎で生まれ育った私は、自然の景色に関しては、容易に検索して引き出して来れるstockがそれなりにあります。自然の景色に関して言えば、Juvenile頃までに獲得した情報量があれば、それを利用して、それなりにゆたかに生きていけると、私は確信しています。アートは、人間が作り出した複雑な情報です。アートを理解するためには、シャープな感性と、知性と、人生の経験値が必要です。感性がとんでもなくシャープな方は、ある一定の年齢を過ぎると、感性はじわじわと摩滅して行くのかもしれません(ロック系アーティストの場合は、間違いなくそうです。ローリングストーンズやボブディラン、エリッククラプトンと言ったミュージシャンの60'sの作品と、その後の作品とを比較すれば、一目瞭然です)。私のような、凡庸な普通人は、摩滅するほどシャープな感性は、元々、備えてません。ミュージシャンにも美術系アーティストにも、到底なれない、ささやかな取るに足りない感性です。が、そうであっても、その後、学習して知性を磨き、経験値を積み上げて行けば、アートを見る鑑賞力は、ほんの少しずつですが、upして行きます。
 昨日、アルビ大聖堂について書きました。アルビ大聖堂の礼拝堂の天井に描かれた模様を見て、その美しさに目を見張りました。今年の秋の中盤から、初冬にかけて、ずっと中世アートを毎日、見ていました。初期キリスト教美術(ケルト美術、メロヴィング美術、カロリング美術)、ビザンティン美術、ロマネスク美術、ゴシック美術とまあ、カリキュラム通り、ひと通り見たわけですが、アルル大聖堂の天井を見て、やっと装飾模様の美しさに気がつきました。初期キリスト教美術のケルトの「ケルズの書」を見て(有名な絵ですから、これまでにも何度も目にしていました)「いつ見ても、この絵はヤバいな。まあ、しかし、自分にはこれは分からん」と、さらっと流したんですが、アルビ大聖堂の天井の模様を見て、その後、もう一度、「ケルズの書」を見直して、ようやく、装飾模様の美しさに心を打たれました。百尺竿頭のその先の一歩は、古稀も近くなった高齢者になっても、極められるということです。
 その後、自宅にある美術書を、at randomに取り出し、次々に装飾模様だけを見てみました。たとえば、インドの装飾模様は、ペルシアのそれと似ていますが、インドの方が、見た目、豪華です。エジプトの装飾は、ロータス、スカラベ、太陽などのモチーフが多いんですが、自然現象の力を、シンボライズしていると言う風に見えます。トルコの装飾模様は、琺瑯塗りのタイルに描かれた場合、fantasticに見えます。ビザンティンの金ピカの感じはゴージャスですし、ビザンティンの幾何学模様は、周囲のイスラムやロマネスクの装飾に、相当、影響を与えていると想像できます。ビザンティンの幾何学模様が、どの文化に、どういう風な経路で、どんな影響を与えたのか、そんなことを、詮索するだけでも、相当な時間とエネルギーを、費やしてしまいそうです。イタリアルネサンスの装飾となると、これはタロットカードに近いなと、感じました。が、話は逆で、イタリアルネサンスの影響を受けて、ミラノのヴィスコンティ家は、タロットカードを作り上げたんです。フランスルネサンスは、エマイユ(七宝)系がすぐれています。なるほど、これがリモージュのルーツかと、腑に落ちました。ドイツルネサンスの場合、ケルト装飾の影響が、圧倒的です。「ケルズの書」のDNAが、そこら中にあふれています。ホルバインとデューラーは、オリジナルの装飾アルファベットを作り上げていますが、ゲルマン民族らしく、動物模様を、いっぱい絡めています。
 上村松園さんの絵を見てnoteを書いていた頃、源氏物語絵巻と浮世絵が、全然、繋がらないとぼやいたことがありました。それが、一気に、繋がりました。源氏物語絵巻や浮世絵は、西洋アートを理解しようとする見方、観点で見ていても、分からないんです。源氏物語絵巻も、浮世絵も(それがすぐれた写楽や歌麿の作品であっても)、どちらも、要するに装飾なんです。何らの観念や、コンセプトを表現している絵ではありません。美しく、心地良ければ、それで充分だと、simpleに考えて、日本人は、絵を描き、鑑賞し続けて来たんです。「最後の審判」の絵や彫刻を通して、「ヨハネの黙示録」の真実を解らせるといった風な、下心いっぱいのアートは、日本には、おそらく皆無です(仏教画には、来迎図などがありますが、明らかに違います。が、今の段階で、どう違うのかを、はっきり伝える力が、私にはありません)。
 サザンの桑田さんは、こんなのただの音楽じゃねぇーかといった風な軽いノリで、エッセーをお書きになっていますが、こんなのただのアートじゃないかと、軽いノリで、絵や彫刻、装飾を見て、楽しめれば、それで充分、人生はhappyだと、想像しています。

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