自#710「社会に出ると、手書きの文化は、ほぼなくなるという理由で、漢字の練習を怠ってしまったら、将来の文化の幅を、大きく狭めてしまいます」

「たかやん自由ノート710」(自己免疫力56)

「EduA」で「漢字学習どこまで必要?」という記事を読みました。私は、世界史を教えています。中国史の分野では、「顧愷之」「真臘」「靺鞨」「孔穎達」等々、国語では絶対に習わない難漢字が出て来ます。こういった難しい人名、民族名、国名などを、漢字で正確に書くことが、世界史の正しい理解につながっています。世界史の教員であれば、教科書に出て来た漢字は、すべて正確に書けるようにしておくことと、指導するのが、当然だと考えています。
 が、生徒にしてみれば、事情が違います。東京圏の大学ですと、国公立も含めて、入試で、難しい漢字を含んだ人名、民族名、国名などを、書くことは、まず絶対に要求されません(関西の私大では出題されます)。共通テストでしたら、だいたいこんなかんじ(いやシャレではありません)だったというイメージがあれば、正解が選べます。受験の試験対策においても、もう難漢字は必要とされていません。現代国語の試験で出題されている漢字の書き取りは、すべて常用漢字の範囲内の漢字です。
 常用漢字(当用漢字)が、いくつあるのか、正確には知りませんが、多分、2000字くらいです。受験生必須の英単語のターゲットだって、2000語くらいあります(正確には1900語ですが、解り易いように2000語としておきます)。中学校で学習する必須単語は、この2000語の中には、含まれていません。つまり英語でしたら、3000語くらいの単語は、覚えなければ、入試には対処できません。
 常用漢字の2000語くらいは、ベーシックな一般教養だろうと我々の世代は、普通に考えていますが、デジタルネイティブというのか、スマホネィティブの今の若い人たちは、もの心ついた時から、スマホがすぐ傍にあります。スマホを使ってコミュニケーションをする時、別段、漢字を書く必要はありません。ローマ字やひらがなで、言葉を打ち込めば、即座に漢字に変換してくれます。漢字の書き取りなど、社会に出たら、まったく必要ないだろうと、今の生徒たちが考えるのも当然です。生徒だけでなく、生徒の親だって、So do I.なのかもしれません。
 昔、保護者の母親と一緒に、田無警察に生徒を引き取りに行ったことがあります。引き取るため、最後に書類を書く必要があって、お母さんに書いてもらいました。お母さんは、田無警察所長殿と宛名を書いてしまいました。お母さんに「いや、所長ではなく、署長です」と、レクチャーしました。お母さんは、赤面していました。まあですが、これは四半世紀くらい前の話です。今は、漢字が書けなくても、当たり前の時代ですから、多分、赤面などはせず「所長でも、署長でも、どっちでも解ればいいんじゃないですか」と、言われてしまうのかもしれません。
 が、まあ私も、そう偉そうなことは言えません。便利な世の中になって、漢字をどんどん忘れつつあります。文章は、今も昔も、原稿用紙に書いています。ワープロが登場する前は、まず、原稿用紙に下書きをして、その下書きの文章を、赤のボールペンを使って、更正していました。この更正段階で、漢字が書けてなくて、ひらがなで表記してある箇所は、辞書を引いて、正しい漢字を書いておきます。この朱を入れた更正原稿を、銀座の伊東屋で買って来た浅葱or薄い臙脂の西洋紙に、モンブランの極太万年筆を使って(インクはセピアカラーです)清書しました。つまり、原稿を書く段階で、書けなかった漢字は、更正と清書の時、2回、正しく書き取るわけです。ちなみに、下書きを書いている時に、漢字を辞書で調べないのは、書くテンポが崩れるからです。下書き段階では、正確な漢字を書くよりも、テンポを崩さないことの方が、はるかに重要です。
 ワープロが登場して、下書きをした原稿を、いきなりキーボードを叩いて、ワープロに入力することになりました。そうすると、ひらがなで書いてあった文字も、正しい漢字に変換されてしまいます。つまり、漢字が書けなくても、文章を書く時、別に困らなくなってしまったんです。明らかに便利です。人は、一度、便利になってしまうと、後戻りできません。が、便利になったお陰で、漢字がぽろぽろ頭から抜け落ちてしまうようになりました。「何かを得れば、何かを失う」、「鋼の錬金術師」のセオリー通りの現象が、やっぱり起こってしまったわけです。
 中学受験をする受験生が、その日の勉強の始める時のウォーミングアップは、計算問題or漢字の書き取りです。こういう作業を15分ほどやって、その日の勉強に取り組みます。高校2年の時、文系クラスを選択して、その時から、残念ながら数学とはsay-goodbyしてしまった私は、計算問題の練習をしたことなどは、かつての人生で、一度もありません。これをやらないと、間違いなく痴呆症になりますと、恫喝されても、百マス問題などは、絶対にやりません。が、漢字の書き取りだったら、やってもいいと思っています。
 私が敬愛している詩人の三好達治は、晩年、福井で暮らしている時、毎朝、墨を擦って、唐詩を書いていました。漢字の練習帳などで、漢字の学習をするのは、正直、気が進みませんが、墨を擦って唐詩や史記などの漢文を書く生活には、ちょっと憧れてしまいます。絵を自学自習で学んだ画家は、沢山います。南画系の画家は、だいたいみんな、特定の先生はいなくて、自学自習です。無論、粉本を見て、それを地道に模写する、基礎的な訓練はみんな実施しています。書の方も、お手本があれば、それを見て書くことは、できそうです。毎朝、唐詩や史記を書いたり、あるいは法華経や阿弥陀経を写したりする、地味で、殊勝な生活を通して、漢字にも同時に、親しめれば、一石二鳥だなという気がします。
 ところで、単調な作業もリズムに乗せれば、楽しくなります。漢字というのは、基本、パーツの組み合わせです。リズムに乗せて、各パーツを書いて行って、漢字を覚えてもらうという指導をされている方もいます。たとえば、受でしたら、ノ、ツ、ワ、又と、四拍で書きます。教えるだったら、かんむり、こ(子)、ノブンの三拍子。喜は、十(じゅう)豆(まめ)口(くち)とやはり三拍子。リズムに乗せれば、どんなに退屈なものも、楽しくなります。人間は、楽しくなるために、音楽を発明したんです。音楽のルーツはリズムです。 どういうやり方でもいいと思いますが、常用漢字の2000語は、ちゃんと書けるようにしておくべきです。書けない言葉は、使えません。文章自体、書けなくなってしまいます。文章が書けないと、文化の幅が、大幅に狭くなってしまいます。将来の文化的にゆたかな人生を担保するためには、常用漢字くらいは、やっぱり必須です。デジタルの時代なんだから、漢字の練習とか、まったく不要だとかという、ガセに惑わされないで欲しいです。

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