自#257「さまざまなこと思ひ出す聖夜かな、ってわけでも本当はないけど、66年も無駄飯を食っていると、それなりにいろいろとあります」

「たかやん自由ノート257」

世田谷の教会のAさんと云う牧師さんから、手紙が届きました。毎年、開催しているジャズコンサートは、今年は(コロナ禍で)開催しませんと云った内容の手紙で、折伏的なcontentは、一切、含まれてないんですが、12月にキリスト教の教会から手紙が届くと、「クリスマスも近いことですし、一年に一回くらい、神様のことを考えてみませんか?」と云った裏メッセージを、勝手に読み取ってしまいます。

 音楽評論家の吉田秀和さんは、バッハの「マタイ受難曲」は、一年に一回、クリスマスの頃に聞けばいいと、仰っていました。超長い大曲です。ややともすれば、退屈もします。レコードはLPで3枚組でした。一枚目のA面を流し、次は裏にしてB面と云う風に、少なくとも、ターンテーブルの傍で、六回は、針を落としたり、上げたりの作業が必要です。私は、キリスト教の寮にいた中高時代に、この作業を、毎年、クリスマス礼拝の前にしていました。受難曲は、やっぱりいろいろとしんどいんです。最終的にハピネスを掴み取れるのかもしれませんが、そこに至るまでのspanが、foreverって思えてしまうくらい、長かったりします。受難は長く、至福は一瞬です。が、至福が長いと、それはそれで、人間は退屈してしまいます。人間は、わがままで勝手な生き物です。

 雪が1メートルくらい積もっている冬の金沢に行ったことがあります。クリスマスの頃でした。香林坊にあった「無言歌」と云う名曲喫茶に入ると、ドボルザークの8番のシンフォニーが流れていました。マタイ受難曲よりは、はるかに短くて、聞きやすいですし、ドボルザークのシンフォニーを、一年に一回聞くとかでも、全然、いいかなと云う気がしました。

 クリスマスを奈良で迎えた年もあります。12月は寒くて、観光客は、ほとんどいません。三月堂とか二月堂の中にいる参拝客が、自分一人だけみたいなことも、起こります。古色蒼然とした国宝級の仏像たちに、自分一人だけが取り囲まれていると云うのも、ちょっと不思議な気がします。奈良の商店街を出たとこで、焼き芋を売ってました。奈良に滞在中は、毎晩、そこで焼き芋を買って、寒いストリートに一人で立って、食べていました。「兄ちゃん、恋人とかおらんのか?」みたいなことを、焼き芋屋のおばちゃんに聞かれました。関西のおばちゃんですから、これくらいの突っ込みは普通にあります。
「そんなんおったら、ここで、一人で焼き芋とか買ったりしとらんやろ」と、返事をしたかどうか曖昧です。当時の奈良は、ハデなイルミネーションとかはなく、夕方から夜にかけて、セピアから薄墨色、そして深い闇へと、景色が変化して行きました。音楽は聞こえてなくて、無音でした。マライヤキャリーの「恋人たちのクリスマス」が流れまくって、猫もしゃくしも、ティファニーの青いバッグに入ったプレゼントを、持って歩いていたりと云った現象は、バブルの頃、ほんの一瞬、銀座界隈では発生していたのかもしれませんが、私は、見てみません。師走の古都の奈良で、「恋人たちのクリスマス」が流れていたら、(今だったら)観光課のサイトは、「どう考えてもちげーだろう」と云った書き込みが殺到して、炎上してしまうのかもしれません。奈良の夕方の冬景色は、たとえばニコンの一眼レフを使って、モノクロで撮らないと、雰囲気が出ません。スマホで撮っても映えません。ちゃちゃっと撮って映えるような景色って、ちょっと底が浅いかなとも思ってしまいます。

 レイモンドブリッグズさんの「サンタの夏休み」とか「寒がりやのサンタさん」と云った絵本が大好きなTちゃんと云う小学校4年生の女の子がいました。サンタを信じているか、信じていないか、微妙なお年頃です。が、まあ意志の力で、Tちゃんは、サンタを信じていたと思います。Tちゃんは、サンタから届いた手紙を見せてくれました。発信国はフィンランドでした。手紙は、英文で書いてありました。どうせなら、フィンランド語で書いて欲しかったです。が、まあ、フィンランド政府が、サンタの代理人として、サンタに届いた手紙の返事を、各国のboy&girlたちに、送っているんです。手間とお金のかかる立派なボランティア行為です。BGMを流すとしたら、ビングクロスビーの「ホワイトクリスマス」が、一番、ぴたつとはまりそうですが、私が記憶しているのは、冨田勲さんのシンセのサウンドです。Tちゃんのお母さんが、NHKのシルクロードが大好きだったので、その関連で、シンセのサウンドが浮かんだんだと思います。

 大阪のミナミで、年末を過ごしていたことが、若い頃は、結構、ありました。大阪はそこらの食堂であっても、食べ物は美味です。東京は、お金をかける=美味、お金をかけない=不味い、と、はっきりと区分できます。大阪は、お金をかけなくても美味なんです(今でもそうなのかどうかは、判りません。今から30年くらい前はそうでした)。

 15歳の夏、大阪球場で、グランドファンクレイルロードのライブを見ました。途中で、どしゃぶりになって、雷が落ちました。ヤバい状況でした。音が聞こえているのか、or notなのかも、もう判りません。が、15歳のJuvenileの頭の中は、音楽だらけなので、音が実際に鳴ってなくても、困りません。15歳のGFR、16歳の大阪万博、これが大阪の思い出の2トップです。20代、30代、40代と、数限りなく大阪には行きましたが(K高の担任時代、2年から3年に進級した時のクラス旅行が大阪でした)15、6歳の頃の記憶が、一番、鮮明です。子育ては、5歳までが勝負だと言われていますが、思い出作りは、高校時代までが勝負かなと云う気もします(少なくとも私はそう信じて、高校の教師の仕事に猪突猛進していました)。30代で、ミナミ(千日前あたりだったと思います)を歩いていた時、レコード屋からマタイ受難曲が、聞こえて来ました。即座に、中高時代にタイムスリップしました。

 昨日、学校の昼放送で、山下達郎さんの「クリスマスイブ」が流れました。「えっ、令和なうで、この曲ですか?」と、「?」が3つくらい頭の中に並びました。バブルのあの頃のクリスマス時分、新幹線の車両の各扉の前に、恋人たちが、ずらりと並んでいたみたいなsceneは、今の15、6歳は、もちろん知らないし、聞いたこともない筈です。が、まあ曲としては、すぐれています。この曲は、もともと、山下達郎さんが、ウエストコーストロックの好きな、竹内まりやさんのために書いたんですが、ボツになって、本人が歌いました。で、JR東海のCMに使われて、メガヒットしました。が、「クリスマスイブ」でしたら、旧中仙道商店街とかでも、流れているでしょうし、ここは、放送委員の知力と、歴史的教養を総動員して、マタイ受難曲を流して欲しかったみたいな。いや、ドボルザークの7番、8番、9番とかでも、全然OKです。

 新宿からバスに乗って、クラスでスキーに行ったことがありました。長野の北志賀です。食事は、激不味だったと思います(私はたいして食べないので、気になりませんが)。スノボが始まった頃でしたが、ユーミンの「恋人がサンタクロース」は、嫌と云うほど、流れていました。
「さまざまのこと思ひ出す聖夜かな」
あっ、もちろん、これは芭蕉からのパクリです。明日(12月24日)のエンディング曲で、何を流すのか、考え中です。

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