自668「怒らないことは、確かに大切な徳です。私のような隠居老人には、それが可能ですが、現役で仕事をしている働き盛りの人が、ずっと我慢しているのは、それはそれで、大きなストレスだろうと想像できます」

「たかやん自由ノート668」(自己免疫力14)

アメトークで紹介された「怒らないこと」という本が、売れているそうです。著者はスリランカのお坊さんです。まあ、お坊さんというのは、普通、怒らないものです。怒らなくても、お坊さんは、何とか食って行けます。日本の仏教は、葬式仏教で、お葬式というイベントで、ビジネスが回っています。お坊さんは、別段、怒らなくても、ルーティーンをこなしていれば、寺の運営も、自分の家庭の経済も、万事、調和して展開して行きます。 もっとも、最近は葬式をしなかったり(私自身、母親の葬式を実施してません)、密葬なども多くなりましたから、多少、事情は違って来たのかもしれませんが、まあ、その場合は、必要じゃない部分は、淘汰されて行けば、いいだけのことです。お寺だって、現実は、ニューリベラリズムの大波に巻き込まれているわけですから、倒産も廃寺も、時にはあり得ます。そのお寺のお坊さんに徳があり、良心的な檀家に取り囲まれていれば、自ずと見えない手、見える手によって、救済される筈です。
 スリランカですと、上座部仏教です。上座部の方が、大乗仏教と較べると、さしてポップじゃなくて、よりpureで、仏の悟りを徹底的に追求しているような印象を受けます。怒っている僧侶とかも、いなさげな感じです。ですが、ベトナム戦争の時、アメリカに抗議して、ガソリンを被って、焼身自殺をした僧侶がいました。高校生の時、映画のニュース(昔は二本立てのロードショーの合間にニュース映画を上映したりしていました)で、このsceneを見て、実に複雑な気持ちになりました。ベトナム戦争及び、介入して来たアメリカに抗議する気持ちも理屈も解ります。が、怒って、焼身自殺をするのは、違うなと感じました。そこらのちんぴら兄ちゃんが、いきがって、チキンレースで、バイクや車で、断崖から誤って、海に落下して死ぬのとは、訳が違います。少なくとも、青少年の模範にならなければいけない、上座部のお坊さんです。そもそも、僧侶が怒ってはいけないだろうとも思いました。
 私は、若い頃、禅寺で坐禅をしていた時期があります。仏教の悟りの世界は、喜怒哀楽を超越しています。まあ、それはそれで、すごいことだと理解できますが、喜怒哀楽が溢(あふ)れる世俗は、悟りの世界とは対極のさまざまなエンタメに取り囲まれていて、人生をenjoyできます。怒りもまあ、enjoyするための必要悪というか、なくてはならない、バイプレイヤー(脇役)だと、思わなくもないです。
 私自身、頭にきたら、いきなり切れるタイプでしたから、怒りを全面否定することは、到底、できません。本能的に切れるのは、やむ得ません。が、自分自身に誠実で、正直であれば、最終的には許される範囲内の怒りに、きちんと止まることができると、想像しています。私に怒られた教え子は、どっさりいる筈ですが、今でも、恨んでいて、根に持っている教え子は、多分、いないと思っています。もしいれば、無言電話とかかかって来そうですが、無言電話を仕掛けられたことも、不幸の葉書が届いたことも、一度もありません。ネットでディスられているという噂も聞きません。
 教育とかしつけとか、関係なしで、頭に来たら、あと腐れなく怒る、そういうことも、時には、きっと必要です。誰も怒ってなくて、みんなが作り笑顔を浮かべて、空気を読み合いながら過ごして行く世界の方が、はるかに不健全だろうって気がします。
 もっとも、これは現役で仕事をしていた頃の話です。今の私のような、隠居老人になってしまったら、怒るのはNGです。そもそも、隠居老人には、怒るタネというか原因が存在しない筈です。隠居老人というのは、今日も無事に生きていることを、素直に感謝しなければいけない、免疫力がめっきり低下してしまった生き物です。若い頃に較べると、身体の機能は、大幅に低下しています。身体がフレイルになっても、心の強さは保てますが、心の強さだけが先行しても、身体はついて行きません。心と身体とのバランスが崩れると、免疫力は、より一層、低下します。
 怒りは間違いなく、免疫力を下げます。免疫力の高い若者でも、大きなストレスがかかって、一時期的に免疫力が下がれば、胃や十二指腸に穴が開いたり、ウィルス感染したりします。怒ることは、自分自身にも、怒っている相手にも、ダメージとストレスを与えます。どちらにとっても、マイナスなんです。
 私は、別段、計画して怒っていたわけではありません。瞬間にかっとなって切れた、まあ、そういう中坊レベルの単純な怒りでした。中坊レベルの怒りの習慣が、60代の前半まで、抜けなかったわけです。大人と言っても、全然、たいしたことないなと、自分自身の経験からして、痛感してしまいます。
 きちんと計画して、怒る人がいます。教育とかしつけのためだろうと、想像できます。S高校で同僚だったN先生が、そういうタイプの方でした。N先生が、要所要所で、怒ってくれるから、学校の秩序が、保たれているってとこがありました。中高時代のboys & girlsなんて、時々、いっぱつ切れて怒らないと、どうにもならないってとこが、あります。成人式で、暴れているboys & girlsたちに、語りかけ、話合いで悟ってもらうなんて、まず絶対に不可能です。相手は、聞く耳を持ってません。聞く耳を持ってない相手は、取り敢えず、怒って黙らせて、その場の秩序を保つしかないんです。
 体育館で、全体集会などを実施すると、そこら中で、半分以上の生徒が私語をしていて、集会が成立しないなんてことは、中レベル以下の学校では普通にあることです。これでは、集会を実施する意味は、まったくないと言えます。少なくとも、静かにさせれば、たとえ聞いてないとしても、集会は成立します。外側の形さえ整えれば、取り敢えず、中味はさておいても、no problemです。「人は見た目が9割」の原則は、ここでも通用します。ぱっと見、おとなしくて静粛な状態なら、その集会は9割成功しています。
 集会がざわついて、これ以上、ざわつきのボリュームが大きくなると、集会が集会として成立しなくなる分岐点というか、臨界点に達する直前で、N先生の全体を引き締める怒声が、体育館中に響き渡ります。そうすると、私語は、一気に静まって、集会の外形を保つことができます。全体を引き締める、この悪役を、結局、N先生お一人だけにやらせて、他の先生方は、私も含めて、みんな楽をしていたと言えます。N先生は、誠実で真面目、生徒のことを本当に考えている、いい先生でした。そういう、真面目ないい先生が、最終的に、ストレスを被って、免疫力を低下させてしまうんです。世の中、やっぱり不公平だなと思いつつ、N先生の御活躍ぶりを、リスペクトしながら、見ていました。
 その後、私はJ高校に赴任しましたが、N先生の役目を果たす人が、誰もいなくて、結局、私が集会の場で怒って、引き締め役をやる羽目になってしまいました。天網恢々疎にして漏らさずってやつです。楽をすれば、どこかで必ず、ツケが回って来ます。まあしかし、私は、計画的に切れるわけではなく、瞬間にその場だけ切れて、その後、5分も立てば、怒ったことすら、忘れてしまうタイプですから、そうストレスは大きくもなかったと想像しています。

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