自#267「米大統領選挙の時、大物アーティストたちが、バイデンをサポートしていましたが、アーティストは、特定の政党に肩入れせず、中立を保っていた方が、健全かなと個人的には思います」

「たかやん自由ノート267」

米津玄師さんのインタビュー記事を、朝日新聞で読みました。米津さんは、テレビドラマの主題歌Lemonが大ヒットして、一般の方にも知られるようになりましたが、高校の軽音部の生徒は、ボカロのPの「ハチ」の名義で活躍していた頃から、米津さんの音楽に親しんでいました。楽曲のコピーもしていました。ハチに限らず、ボカロ音楽の価値に、いちはやく気がついていたのは、中高校生たちだろうと、私は思っています。

 私が顧問をしていたJ高校のバンドの部活は、少なくとも東京では、どこの学校さんよりも早く、ボカロのコピーを手がけました(一番最初の曲はモザイクロードでした)。生徒たちは、ボカロに親しんでいましたが、私は、生徒の演奏を通して、ボカロに出会いました。私は、レコードを聞いて、音楽を知り、理解しました。レコードがCDに変わりました。CDになって、何かなぁ…とは思いつつ、私が音楽を知るのは、やはりCDを通してでした。生徒が、ボカロを演奏したのは、10年くらい前なんですが、良く解らない不思議な衝動を感じて、当時、学校の近所にあったゲオに行って、ボカロのオムニバスアルバムを借りて来て、聞いてみました。が、良く解りませんでした。皮膚感覚で解るってとこは、全然なくて、音楽が私に何かを語りかけて来ることもなく、一体、これのどこが面白いんだろうと、素朴な疑問を持ちました。大学を卒業して、きちんと就職もしていたのに、さっさと会社をやめて、東欧を漫遊して、その後、高校時代からずっと続けているバンド活動をして、まったくもって、前途有為ではない教え子のMくんに「ボカロってどうなんだ?」と質問すると、「あれは、パズルの組み合わせですかね」と云う返事が戻って来ました。ヤマハが開発した、初音ミクと云うソフトを使って、ひたすらパズルの組み合わせを考えて、楽曲を製作していると云う意味です。つまり、パズルの組み合わせは、その個人の中で、完結していて、外側に広がって行かないんです。米津さんも「自意識の内にこもって、自分のためだけの音楽を作っていた時期もあったんですけど」と、仰っています。ボカロ音楽は、ボカロ音楽制作者の自意識の内部で、完結していて、外側につながろうとはしてないと感じました。ボカロ音楽の制作者たちは、基本、引きこもりで、ボッチな方々だと推測できますし、米津さんも、おそらくそういう方です。その外側に広がらないボカロ音楽を、日本の中高校生たちは、理解しました。ダンス部のパリピの女の子や、体育部活系のうぇいのイケメン男子は、理解しなかったかもしれませんが、少なくとも、高校の軽音部のロンリーで、ぼっちなJuvenileたちは、理解して、shareしました。そのshareした音楽をコピーして、ライブで演奏しました。ライブは、外側に開かれています。音が生でdirectに聞こえて来ると云うのは、とんでもなく、すごいことなんです。高校生たちのライブ演奏を通して、私はボカロを理解しました。当時、ニコ動に、ボカロ演奏は、数多くupされていたんですが、「ネットには行かない」が、私の基本のスタンスでしたから、ネットでボカロの演奏を聞いたことはありません。

 去年の3月から、ブログを書き始めましたから、私も人並みにネットユーザーになりました。ネットを解禁したわけです。が、相変わらず、ネットとは、概ね、疎遠です。それは、ネットに行きたくないのではなく、ネットの情報処理の仕方が解らなくて、ネットには行けないと言った方が正確です。紙ベースですと、何が正しくて、何がフェイクなのか、頭をたいして使わなくても、即座に識別できます。ネットで、それをやれる自信が、まったくないんです。が、前の学校の同僚の先生に紹介してもらって、米津さんのフォートナイト内でのライブを、40分間ほど、見ました。教え子の奥さんが、ファイナルファンタジーのオンラインゲームをやっていて、それを見学したことがあったので、オンラインのゲーム空間が、どういうものなのかは知っていました。自分自身が、自分のパソコンでゲーム空間に入って行って、これはリアルの実人生とは、まったく別のものだと云う、ごくごく当たり前のことを、はっきりと理解しました。米津さんも「自分は昔からオンラインゲームが好きでした。オンラインでのコミュニケーションをしていて感じたのは、現実のコミュニケーションとは、別物であるということです。相手の顔も性別すらもわからない仮想の肉体(アバター)同士で接し合う。それによって、救われる部分が大きくあります」と語っています。

 何年か前に、藤田祥平さんと云う方が書いた「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」と云う本を読んで、オンラインゲームと云う仮想空間を、頭の中で理解しました。フォートナイトのゲームの中に入って行って、オンラインゲームを、頭の中ではなく、仮想現実と云う「現実」を通して知りました。つまり、これは荘子の中に登場する「胡蝶の夢」のようなものです。主人公の荘周は、夢の中で胡蝶になります。覚めると荘周に戻ります。が、荘周が本物で、胡蝶が仮想なのかどうかは、本当は判らないんです。認識論は、不可能だと、哲学ではもう決着がついています。結局は、慣れとか、時間の問題です。リアルよりも仮想空間の方に長く滞在すると、仮想空間の方がリアルになり、リアルが仮想空間になります。

 ところで、フォートナイトが、これほどにまで大ヒットしていて、世界中で3億5千万人もユーザーがいるのは、ある意味、リアルが行き詰まっているからだろうと、私は想像しています。

 ボカロ出身の米津さんが、フォートナイトでヴァーチャルライブを開催したのは、まあ子供の頃から慣れ親しんだ仮想空間に里帰りすると云った意味合いも、あったんだろうと思います。米津さんの音楽も、そこらで跳梁跋扈しているアバターたちも、全体のデザインも、おもちゃ箱をひっくり返したように、にぎやかで楽しかったんですが、これはやはり、この中で完結しているイベントだなと感じました。ヴァーチャル慣れしてない私は、ヴァーチャルの世界に、すぶずぶと入り込むことは、できないんです。結局、40分ほどで退室しました。コロナ禍で、自分がライブを開催するとしたら、配信もやむ得ないかなと、考えたりもしてたんですが、自分の場合、配信のライブはないなと、はっきりと理解しました。アンプの生音が、すぐ傍で、がんがん鳴っているのが、つまりライブです。

 米津さんは、コロナ禍以前は、アルバムを作って、毎回ツァーを実施していました。「アルバムの音楽が、自分の肉体を通して別物になって届いていくというのが重要な体験であって、そういうライブの経験を経由していたからこそ、次に作品に向かえていたということを改めて気づかされました」と仰っています。この原理は、ヴァーチャルのライブの場合でも、適用されるのかどうか、質問してみたいと云う気もしました。

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