自#312「何ができるのかを考え、優先順位をつけて、順番に仕事を片付けて行きます。が、そういう計画的なプログラムが嫌になって、たまに、何も考えず、無茶苦茶をやりたくなります。で、まあ人それぞれ、差し障りのない無茶苦茶(たとえばオールでスタジオに入って、ギターを弾きまくるみたいな)をやるって、感じだろうと思います」

         「たかやん自由ノート312」

 20代の後半、四万十川の河口の土佐中村で、4年間、過ごしましたが、仕事は、公共用地を取得する業務に携わっていました。道路を拡張したり、河川の改修などをするために、必要な土地を地権者から買い上げるのが仕事です。一般的に言って、楽な仕事だとは言えません。県庁の出先の仕事の中では、かなりハードな仕事だろうと推定できます。が、まあ当時、私は下っぱの係員でした。住民は下っぱにクレームをつけたりはしません。下っぱには権限がないことを知っています。クレームや苦情は、まず係長が受け、係長が対処できなければ、事務系の次長が対応します。最終的には事務系の次長に、トラブルが集中します。

 役所は、上に行けば行くほど、仕事の内容が重くなります。下っぱは、仕事の範囲も限られていますし、権限もありません。平の係員が、うつになったと言った話しは、私は聞いたことがありません。うつになるのは、私が知る限り、係長以上の役職がついた方です。

 地権者が土地を売ることを拒否して、買えなかったら、交渉の経過などを文章でまとめて、買えませんでしたと報告すれば、その後のことは、係長が考えます。
「ガキの使いやあらへんで。買えるまで、事務所に戻って来るな」などとは、言われません。そこは、民間の地上げ屋とは違います。最終的には、土地収用法を適用して、強制収用をすることもできます。一度だけ、この土地収用法にもとづく強制収用をするための手続きをしたことがあります。とんでもなく面倒な手続きでした。が、所詮はデスクワークなんです。強制収用をするかしないかと云った段階になると、下っぱの係員が、地権者と交渉したりはしません。「こんな若造が来て、どないするんや」と、地権者に叱られてしまいます。ものすごく面倒な書類を仕上げ、稟議書に決済印をもらい、あとは、本番の強制収用をするだけと云う、ギリギリの段階になって、地権者がOKして、土地の買収ができました。最後は本庁の課長が出向きました。まあ、それなりのアレンジと云うか、妥協があったわけです。何がどうなって、決着をしたのかは知りません(知らされませんでした)。買収した土地の単価を見て「えっ・・・」って感じにはなりました。

 下っぱの平の係員には、知らされないこと、知ってはいけないことが、沢山ありました。そういうブラックボックス的なものは、多分、どこの世界にだってあると思います。たとえば、土地の値段が短期間に、数倍にはねあがっていたとしても、その原因、理由を突き詰めたりしちゃいけないんです。それは、下っぱの仕事ではありません。平の下っぱの時は、知らない、知らされないで済みますが、上に行くと、ブラックボックスに関わらざるを得なくなるんだろうと想像できました。本庁の主管課の公共事業の契約担当をしている先輩がいました。その主管課の契約担当は、常に退職願いを背広の内ポケットに忍ばせている云う噂でした。「内ポケットに退職願いとか、やっぱり忍ばせているんですか?」と、聞いたら、笑ってました。で、「おまえも、その内、大変になる」みたいなことを言われました。が、大変になる前に、リタイアしました。

 地権者が土地を売らないと表明したら、もう事務的な手続きは一切、不要なので、その後は、地権者の方と、世間話をしました。もう、まったくの世間話です。その後も、近くに行ったら、立ち寄って、話しの続きを聞いたりしてました。そうやって、仲良くなると、「まあ、しょうがない。あんただったら土地を売る」みたいな展開になったりもしました。が、土地を売ってもらうために、その後、訪ねたわけではありません。本当にただ、話しの続きが聞きたかったんです。人と喋って、仕事もまあ、何とかなって行く公共用地取得の仕事は、私にとってはそう辛い仕事でもなく(辛いと感じたことは一度もありません)、4年間、仕事をenjoyできたと思っています。

 田舎の人は、仲良くなると、基本、ほとんどの人が、親切でいい人たちです。ある程度、親しくなると、戦争に行ったとか、満州から引き上げて来たみたいな、シリアスな話にもなります。それは、やっぱり誰かに、きちんと語っておかなければいけない、大切な話なんです。当時の古老には、明治時代は少年だったみたいな方とかもいました。明治の終わりあたりから、大正、そしてあの昭和の戦争を経て、昭和30年くらいまでの話しをいろいろ聞きました。ここ20年くらいの「最近」の話は、ほとんど出て来ませんでした。ですから、60年安保も、68、69年の大学紛争も、ベトナム戦争も、オイルショックも、まった存在してなかったかのように、昭和20年代のどこかで、時計が止まってしまっていると云った印象を受けました。陶淵明の桃花源記は、前漢も後漢も、黄巾の乱も知らない、タイムスリップしたような世界に、突然、迷い込んだ話ですが、それに似たような、昭和の最後の4年間でした。10代くらいの若者にとっては、死ぬほど退屈な、終わっている田舎町だったのかもしれませんが、20代後半の私には、とんでもなく居心地の良い山紫水明の桃源郷でした。

 ただ、20代は下っぱの係員だったので、楽しかったんです。ポストが上がれば、権限は拡大し、責任もずっしりと重くなります。内ポケットには、ベイエリアからリバプールまでカバーできるトランジスタラジオじゃなくて、退職願いとかを忍ばせているみたいな展開になっていたのかもしれません。学校にだって、ブラックボックスは、ないわけでもないと思いますが、私はブラックボックスの気配を感じたことはありません。副校長、校長になると、大変な状況になると云うのは、容易に想像できます。副校長は、物理的にも激務です。働き方改革とかとは、真逆の働きぶりに見えます。管理職の給料は平教員よりも高いんですが、高くて当然です。何か問題があれば、管理職が、矢面に立たなければいけません。

 最近、ライブの夢を良く見ます。それも、ライブでトラブルが発生する夢が多いです。バンドの顧問をリタイアしてから、見るようになりました。まあ、やっぱりライブの主催をしたいんだろうなと、想像できます。土佐中村時代の牧歌的な桃源郷時代の夢は、一度も見たことがありません。あまりにもハッピーで、あれはあれで、もう完結していると、潜在意識の中で、思い込んでいるからなのかもしれません。

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