自#411「可愛い子供に、旅をさせろという俚諺は、リスクのある世界に進むことを、親が背中を押してpushするということです。親が腹をくくれば、子供も覚悟します。守りに入ってしまうと、人生はハピネスから遠ざかってしまいます」

           「たかやん自由ノート411」

 隈研吾さんは、東大の建築学科を卒業したあと、六本木の生産技術研究所の原広司さんの研究室に入ります。原広司さんは、世界の辺境集落を訪ね歩き、そこから未来の建築のあり方を模索するといったスタンスで、研究をされていました。時代に背を向けた変わり者の建築家に、隈さんはシンパシーを感じたそうです。ちなみに隈さんが卒業したのは1977年。プラザ合意の8年前。日本の社会が、バブルに突入しようとしていた少し前です。

 原研究室では、それまで4回、辺境の集落調査を実施しています。第一回は地中海。第二回、中南米。第三回、東欧から中東。第四回、イラク・インド・ネパールです。隈さんが、「次はサハラ砂漠に行きましょう」と、原先生に提案します。隈さんは、17歳で詩を放棄して、砂漠の旅人になったアルチュールランボーに憧れていたそうです。若者の行動のきっかけは、いたってsimpleなものです。原先生は「いくら何でも、アフリカはヤバいんじゃないか。文化人類学の調査隊でも、随分、学生が死んでいるらしいぞ。他にもう少し安全なところはないのか」と、いったんは尻込みしますが、隈さんは、いろいろ調べて来て「四駆の車二台にガソリン、食料、水を積めば、サハラ砂漠は縦断できます」と、原先生を説得します。パリ・ダカールラリーというサハラ砂漠を駈け抜けるレースもあります。人跡未踏の未開の地というわけではありません。

 1978年の12月に、サハラ砂漠調査の旅は、スペインのバルセロナからスタートします。地中海の冬は、シロッコという強い南風が吹き荒れて、日本の輸送船は、アルジェに接岸できず、バルセロナにガソリンタンクを増設した、四輪駆動車を、二台、日本から送っていました。四駆二台で、マルセイユまで行って、そこでフェリーに乗って、アルジェを目指します。船は、シロッコで激しく揺れたそうです。鳴り響くアラブの音楽と異種の香料の匂いの中で、季節労働者達と一緒に、船底で雑魚寝をして、激しい船酔いに見舞われたと、隈さんは述懐しています。

 アルジェから、まっすぐ南下して、まずムザブの谷の7つの集落を調査します。有名なガルダイアは、集落全体が、白い角砂糖を積み上げて作ったような、美しい村です。丘の一番高い所に、モスクの尖塔(ミナレット)が立っています。礼拝の前には、尖塔から流れて来るアザーンが、村全体に響き渡る筈です。「ガルダイアからすべてを学んだ」というコルビュジエの言葉を、原先生が教えてくれます。確かに、角砂糖の一個が、つまり上野の西洋美術館だと言われても納得できます。コルビュジエは、雪の深い、スイスの山村出身です。人生のどこかで、アルジェリアの強烈な太陽を、そうカミュの太陽がまぶしすぎて人を殺しましたという太陽を、コルビュジエは必要としたと考えられます(人を殺さず、自己の内部の因習、邪悪、アンシャンレジームを抹殺すればいいだけのことです)。

 ムサブの谷は、サハラ砂漠の入り口です。ムサブの谷を過ぎてから、authenticなサハラの旅が始まります。サハラの集落は、すべてその場所の土を水で練り、太陽で干して固めた日干しレンガ(アドベ)で造られています。ですから、風景に同化しています。人工物と自然とを対比させるのではなく、どこまで自然に近づけられるかと云う隈さんの建築のオーソドックスなスタイルは、サハラ砂漠で培われます。

 ところで、集落を調査する許可を、あらかじめ取っているわけではありません。仮に集落の情報を手に入れ、調査許可をその国に申し出たとしても、許可が下りるのに、どれくらい時間がかかるのかも読めませんし、そもそも、許可が出るのかどうかも不明です。お役所仕事は、どこの国に行っても、不透明、非能率、不親切で、これはグローバルな世界標準です。ですから、ぶっつけ本番、いきなり体当たりで調査をする、これが原研究室のスタイルです。危険極まりない、アフリカですと命がけのリサーチです。

 一応の戦術はあります。ボールペンをどっさり持参しています。大人たちは、警戒して、家から容易には出て来ませんが、子供は集まって来ます。その子供たちに、ボールペンを渡します。プレゼントがボールペンだというのが、東大の研究所の限界だなという気もします。ボールペンを使用できるノートなど、サハラの子供たちは、ほとんど持ってない筈です。日本の終戦後の欠食児童たちも、米兵には「Give me chocolate.」「Give me caramel.」と言った筈です。子供たちと、仲良くわさわさ過ごしていたら、大人たちが出て来ます。身振り手振りを交えながら、フランス語で(通じなかった場合の方が多かったそうですが)
「家を見せてくれ」と頼みます。で、家の中に入って行って、巻き尺で寸法を測ります。巻き尺の片方の端は、子供たちが持ってくれます。子供たちにしてみれば、何かの新しい遊びです。キャッキャッとはしゃぎながら、手伝ってくれます。子供と仲良くなって、子供に手伝ってもらって調査をする、このやり方で、原研究室は、世界の辺境の集落を、調査して来たんだろうと想像できます。ひとつの集落を調査するのに2、3時間はかかるそうです。午前中にひとつ、午後にひとつと云うペースで、二ヶ月の旅の間に、100個ほど集落を調査して、それをすべて図面に落とします。コツコツとした、根気の必要な地道な作業ですが、得るものは沢山ありそうです。

 場所が違って、住む人が異なれば、同じサハラ砂漠でも、ひとつひとつの集落は、全部、違います。一人一人の人間が、全員、個性的であるように、集落だって、それぞれ個性的です。こんなことは、考えたら当たり前のことです。私の田舎は、高知の御畳瀬(みませ)と云う小さな漁村です。すぐ近くに浦戸という漁村があります。同じ海で、同じような魚を捕っているわけですが、住む場所が違って、人が違えば、村の文化は違います。御畳瀬という小さな漁村の中も、北、西、中、南と部落が分かれています。私が住んでいたのは北部落です。北と西は、狭島と福浦様という神社を管理しています。中は、天神様を護っています。南にはお寺があります。北と西は、まあ似ていますが、でも文化のディティールは異なっています。

 産業革命によって、同じものを大量に作り上げる仕組みが確立しました。同一のものを大量に作り上げれば、利益率は上がります。ひとつひとつ手作りで作って行くと、商品は個性を持ちますが、利益率は下がります。産業革命の結果、本格的に稼働し始めた資本主義の要請によって、私たちは、同じような商品、フランチャイズのコンビニ、ファーストフーズ、ファミレスなどに取り囲まれているんです。便利ですが、diversityではありません。日本全国の各地に、セブンがあり、マックがあり、スカイラークがある、どう考えても異常です。異常だということにも、もう我々は、気付けません。サハラ砂漠に2ヶ月も行かなくても、サハラ砂漠のツァーで2、3日あっちに滞在するだけでも、日本のこの金太郎飴状態の異常は、理解できます(もっとも、さすがにサハラ砂漠のツァーはないと思いますが)。私が子供の頃に過ごしたのは貧しい漁村でしたが、個性がありました。diversityにあふれていました。便利さを追求せず、手間ひまをかけて、手作りで何かを作り上げる努力をすれば、もう少し住みやすい、キャラの立った、diversityな世界に、多少なりとも近づけると思います。

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