自#377「岡林信康さんがニューアルバムを出して話題になりました。お元気そうで、何よりです。自分より歳上の人が、活躍してくれるのは、やっぱり嬉しいです」

          「たかやん自由ノート377」

 作詞家の松本隆さんのインタビュー記事をbeで読みました。どこかの高層ビルの窓の傍に座っている松本さんの上半身の写真が掲載されています。写真の下に説明(キャプション?)が書いてあって、「生まれ育った青山と麻布、渋谷を結んだ三角形を『風街』と呼んで懐かしむ」と記してあります。「えっ、風街って、そこなんだ」と、この歳になって、ようやく「風街」の正統な場所を理解しました。「うーん、知らない方が、ロマンチックで良かったかも・・・」です。

 二度目の高1の時、ハッピーエンドの「風街ろまん」のアルバムを買って、聞いていました。「風街ろまん」のアルバムが、大ヒットしていたわけではありません。知る人ぞ知る的なコアでレアなアルバムでした。当時私は、ボブディランやザバンド、バッファロースプリングフィールドやジェームステイラーなどを聞いていました。今と違って、最先端の音楽に、常にアンテナを張っていました。「風街ろまん」が発売されて、日本のポップ音楽の世界が、ようやく本格的に始まったと感じました。日本のポップ音楽を背負ったのが、作詞家の松本隆さんと、作曲家の筒美京平さんだったんだろうと、推測しています。

 松本隆さんが、作詞して、世に送り出した大ヒット曲は、沢山あります。「木綿のハンカチーフ」「スニーカーブルース」「ルビーの指輪」「赤いスイートピー」「冬のリヴィエラ」・・・等々。が、歌詞のカッコ良さは「風街ロマン」の楽曲が、一頭地を抜いていると、個人的には思っています。たとえば、A面の3曲目の「風をあつめて」。
 伽藍とした防波堤ごしに
 緋色の帆を掲げた都市が
 停泊してるのが見えたんです
とか、
 ひび割れた玻璃ごしに
 摩天楼の衣擦れが
 舗道をひたすのを見たんです
と言った、fantasticで、お洒落な歌詞は、一度聞いたら、生涯忘れられないフレーズだと、高1の頃、思っていました。「風街ろまん」には、東京麻布十番の暗闇坂のももんがーが、「ごぶさたしました」と、草疲びれた声で登場したりする曲もあるんですが、アルバム全体の舞台のイメージは、神戸の街の風景だと、私は感じていました。ですから、今さら、「風街」は、花の都大東京のトライアングルの一画のことだと教えられても、正直、困るなというのが、本音です。

 青山生まれで、青山、麻布あたりでずっとお暮らしになった松本さんは、2012年に、神戸に移住されます。この頃、東京から西日本に移住する方が、結構いました。東京では放射能の雨が降っていましたし、地震の余震も、東日本の我々を脅かしていました。が、松本さんは、3・11とは無関係に、「風街ろまん」の原風景にお帰りになったんじゃないかと、勝手に想像しています。

 私は、日本のポップ音楽は聞きませんが「夜明けの来ない夜は無いさ」で始まる「瑠璃色の地球」は、合唱祭の定番曲なので、しょっちゅう聞いていました(松田聖子さんが歌ったオリジナルの方は聞いたことがありません)。
 朝陽が水平線から
 光の矢を放ち
 二人を包んでゆくの
 瑠璃色の地球
と言ったフレーズは、「風街ろまん」のDNAを感じてしまいます。

 ハッピーエンドは、松本隆さん、細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さんの4人が組んだ伝説のバンドです。ハッピーエンドのアルバムは、ほとんど売れず、彗星の如く登場し、あっという間に解散しました。音楽として優れていましたが、明らかに時代を大きく先取りしていました。世相の雰囲気、空気感を忖度せず、自分たちのやりたいことを、自由にやった、そういうアルバムだったし、音楽でした。ビートルズが「サージャントペパーズロンリーハーツクラブバンド」のアルバムを、もし一枚目に出していたら、やっぱりほとんど売れなかっただろうと想像できます。「風街ろまん」で、充分に学習した後、今、まさにヒットしそうな旬の曲を、松本さんは次々にお書きになられたわけです。

 松本さんは、団塊の世代で、いわゆる全共闘世代です。中3でビートルズと出会った松本さんは、全共闘には関わってないと思いますが、この世の中を良くするためには、自分はどうすればいいのかということは、お考えになった筈です。
「三島由紀夫の割腹事件とか、連合赤軍の浅間山荘事件とかを見てて、力では世の中は変わらないんだと。何なら変えられるか考えて、歌なら世の中が変えられるかもと二十歳の僕は思ったんだ」と、松本さんは語っています。

 ハッピーエンドがロックだったのかどうか、私には判りません。非常に上質なハイセンスのポップだったと私は思っています。当時、内田裕也さんは、ロックは英語で歌わなければいけないと言ってました。ハッピーエンドは、日本語でロックを歌うという立場だったんだろうと推定できます。が、私が邦楽でロックを感じるのは、忌野清志郎さんだけです。清志郎さんとは、聞き込んだ音楽のルーツがほぼ同じで、親しみがあって、より解るからだろうと、想像しています。ハッピーエンドが打ち出した、ハイセンスなポップ音楽の流れは、今に至るまでずっと伝わっています。はっと、息を呑むようなハイセンスの高校生バンドを、ごくごくたまに見かけたりしますが、ハッピーエンドとか、聞き込んでいるんだろうなと、勝手に想像したりしています。

 74歳で新曲を書いてニューアルバムを出した、岡林信康さんの刺激を受けたそうです。「『70歳を過ぎたから自分は終わった』なんて思っちゃいけないんだ」と松本さんは、仰っています。70代、80代になっても、ギラギラしている人は、いくらでもいます。私は、30代の頃から、「ニシモリはもう終わった」と、生徒や教え子たちに、しょっちゅう言われ続けて来ました。30代と40代と、同じ事ができるわけではありません。30代でできることは、確かに30代で終わります。が、40代になり、50代になりと、年齢を重ねていけば、青壮年時代には、できなかったことが、できるようになります。鉄斎の絵だって、60代の絵より、80代の作品の方が、圧倒的にすぐれています。長生きをして、いい仕事をする、これが人生百年時代に求められている、現代人の課題だろうと私は単純に考えています。

 松本さんのルーツは、ドラマーです。神戸のカフェから「ドラマーの松本隆」の音楽を配信するそうです。ローリングストーンズのチャーリーワッツは、松本さんよりずっと歳上です。チャーリーワッツなんて、そこにいるだけで、強烈な存在感があります。松本隆さんも、同じように日本の偉大なマエストロです。

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