創#690「比叡山延暦寺の千日回峰は、7年間、山に籠もって修行をします。体力的に20代じゃないと無理だと判断できます。が、20代の7年間を、修行に費やすのは、やっぱり精神的にきついなと、思ってしまいます」

        「降誕祭の夜のカンパリソーダー434」

 人生80年時代だとしたら、あと60年ほど生きて行くことになる。その60年に意味があるのかは、判らなかった。生きて行くことの意味を、探ることは不可能だと、理解できていた。生きて行くことに意味がないから、叔父は、27歳で自死した。が、自分が叔父のように自死するとは、到底、考えられなかった。母親から受け継いだDNAが、自死を許さないと感じた。
 母親は、自分が小2の時、自転車に乗っていて、車に撥ねられ、頭を強く強く打った。2ヶ月ほど入院していた。退院後も、後遺症は残っていて、一ヶ月に一日か二日、強烈な頭痛と吐き気が襲って来る様子だった。私は、母親が、頭痛をこらえ、激しく嘔吐している様子を見て、母親の生命力の強さを直観した。この強さは、自分にも確実にあると感じた。 中2の終わりに、相当高い石段の上から落下して、意識を失った。意識を失う直前、「あっ、とうとう、この瞬間が来た」と、一瞬思った。救急車で病院に運ばれ、集中治療室のベッドの上で目が覚めた時、これくらいのことでは死なないと、はっきりと理解した。頭を打って、病院には3ヶ月入院していた。母親のような強烈な頭痛も、吐き気も襲ってこなかった。入院したことを、周囲の仲間たちは誰も知らず、見舞客も来なかった。
 入院している三ヶ月間は、毎日、人生の意義を考えていた。人が生きることには意味はない、が、意味がなくても生命がある限り、自死はしちゃいけないと、結論を出した。生きて行くことに、意味があるとしたら、大きな摂理の存在が必要だと感じた。その大きな摂理が、キリスト教のような一神教が説く神であれば、神との出会いは可能なのかどうかといった風なことも考え始めた。小1、2の頃も、こういう形而上学に掴まっていたことがあった。が、野山で遊び、川や海で泳いでいる時は、形而上学をさて置くことができた。二十歳の自分は、もう野山では遊ばず、川や海でも泳がない。生きていることに、意味があるかないかは、今だってさっぱり判ってないが、もうそんなことは、どうでも良くなってしまっていた。さほど悪くもない、ほどほどの人生を、送るんだろうと漠然と考えていた。
 自分が好きなことは、音楽を聞くこと、アートを見ること、本を読むことの三つだった。野山で遊び、川や海で泳ぐことは、小学校時代に、さんざん体験したので、もう充分、経験値はstockされていると感じた。自然らしい自然がない東京で生活することも、まったく苦痛ではなかった。
 大阪の街中も、東京同様、本物の自然は存在してなかったが、大阪の場合、南海電鉄や近鉄に乗れば、即座に本物の自然にアクセス可能だった。
 キリスト教の神も含めた、西欧的なものを追求するのであれば、東京に住むのが最適解だと感じた。日本の古典的な世界を追求するのであれば、京都・奈良が最適解なのかもしれないが、実際に生活をするとなると、大阪がbestだと理解できていた。
 大阪で暮らして、Y子やU子さんのような、女子の友だちと、喋るのも、それはそれで、楽しいし、有意義だろうと想像できた。
 大学の学部、学科で言えば、文学部の仏文科でフランス文学を専攻することが、西欧的なものを追求する王道で、国文科で源氏物語や万葉集を研究するのが、日本の古典の追求だと、容易に理解できた。そのどちらの方向も選択可能だったが、何となく軽いノリで、政経学部に入学した。何となくの軽いノリで、将来の方向が定まってしまうことは、往々にしてあると痛感した。
 自分で食って行くためのスキルを獲得するために、バーテンの修業をした。中学までの過去の人生を冷静に振り返って見ると、バーテン以外の仕事は、考えつかなかった。が、アルコール依存症の患者を、増やしてしまうかもしれないバーテンの仕事に従事することは、倫理的にどうなんだろうという疑問は抱いていた。アルコールを出さない喫茶店だと、目いっぱい働いても、かつかつでしか食って行けないだろうと想像できた。
 自分は、貧乏には慣れている。美味なものも好きじゃないし、アルコールだって、その気になれば、止めることもできる。体力がある内は、橋の下でも、地下街でも、オールナイトの映画館でも、どこでも眠れる。自分一人であれば、何をしても食って行ける。
 結婚をして、子供を持つとなると、人生の展開は、大きく違って来る。漠然と、結婚はすべきだとは考えているが、生涯の伴侶と出会うのは、やっぱり縁だという気がする。
 モーパッサンの「女の一生」のジャンヌは、17歳で修道院から出て来て、3ヶ月後には、ジュリアンと結婚してしまった。17歳では、男を見極められないし、あと3、4年くらい待っていれば、縁のある良き伴侶に巡り合えていたのかもしれない。結婚をして、伴侶と生活をするとなると、家庭生活がずっしりとのし掛かって来る。もう自由自在には動けなくなる。結婚問題は、当分の間、先に延ばしておいても、問題ないような気がする。
 この後、京都で暮らしている関谷くんと、比叡山に一緒に登る予定になっていた。大津方面からではなく、北白川から登るつもりだった。比叡山延暦寺には、千日回峰という7年間、山に籠もって歩き続ける修業がある。体力的に、20代じゃないと、達成できない修業だと言える。20代で懲役10年の刑で、刑務所に入っている先輩がいる。模範囚として過ごしていれば、仮釈放されるが、それでも、7、8年は刑務所で暮らすことになる。20代の7、8年を刑務所で暮らすことと比較すれば、自然の中で、7年間修業をする方が、more betterだとは思うが、20代の7年間のスタンドアローンの修業は、やっぱり精神的にきついと想像できる。お釈迦様だって、29歳~35歳の6年間の修業時代だった。こっちの方ぎ、20代の7年間よりも、ずっと楽だと想像できる。

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