自#412「今日は、故郷の小さな山村のことを、少し書いていて、その山村の景色をいくつか思い出して、happyでした。若い頃、あっちこっち彷徨しておいた方が、歳取ってから、いろいろ回想できて、楽しいってとこは、間違いなくあります」

         「たかやん自由ノート412」

 隈研吾さんは、80'sの半ば、コロンビア大学の客員研究員としてニューヨークで過ごします。ニューヨークのアパートに、ぐちゃぐちゃのお好み焼きのような建物を設計する大阪の中筋修さんと、酒がやたらと強い、やはりぐちゃぐちゃな設計をする土佐人の小谷匡宏さんが、訪ねて来ます。小谷さんと、ニューヨークのバーをハシゴします。土佐の大酒呑みなら、ニューヨークのバーのカクテルなど、いくらでも飲めます。ちなみに土佐(高知)では、酒が飲めることが、ステイタスです。酒が飲めなければ、3ランク以上カースト(このカーストを人間の値打ちと言ってもいいと思いますが)が、下がってしまいます。私だって、郷里にいた頃は、アルコールを飲んでいました。酒を飲める人間が、飲まないという選択をすることは、少なくとも、私の若い頃の高知では、不可能でした。女性も飲みます。真の酒豪は、だいたいはちきん(男まさりの女性)と相場が決まっています。

 隈さんは、プラザ合意後の1986年に東京に戻って来ます。中筋さんに勧められて、仲間を募ってコーポラティブ方式で、ビルを建て、ビルのワンフロアーに自分の設計事務所を開きます。が、突然、バブルが崩壊し、担保の土地の値段が暴落して、たちどころに行き詰まります。コーポラティブ方式で、ビルをshareしようと誘った仲間は、破産をしたりして次々と撤退します。隈さんだけが生き残って、その後、18年間、借金を返済し続けます。

 隈さんはお仕着せのマンションなどNGだと考えていました。マンションの値段のかなりの部分が、広告とモデルルームに使われています。大企業が作ったお仕着せの商品を買わされて、一生かかってローンを返し、その退屈な商品ひとつだけが残ります。その商品を子供たちに想像しようとしたら、そこでまた高額な相続税をとられて、相続さえおぼつかなくなります。大企業と国家に搾取されるだけのそんな人生から、抜け出したいと思って、仲間たちと家を建てるというコーポラティブハウス方式を選んだわけですが、残念ながら、バブルが崩壊しました。

 エンゲルスは、その著書「住宅問題」の中で、「労働者に家を与えるという政策によって、労働者はかつての農奴以下の悲惨な状況に陥るだろう」と予言しています。
「家を所有することが、できたからといって、家は金を生み出すわけではなく(バブルは、家&土地が金を生み出すという根拠のないマジックをかけたと言えます)彼らは、家を持つという幸福幻想に絡めとられて、家のローンのために死ぬまで働くことを、強制されているだけだ」と、エンゲルスは看破しています。19Cの住宅ローンも持ち家政策も存在してなかった時代に、エンゲルスは、見事に未来の労働者の悲劇を予言していたと言えます。

 バブルがはじけて、東京のプロジェクトが、ことごとくキャンセルされてしまった頃、高知で小さな設計事務所を営んでいる小谷匡宏さんから「高知と愛媛の県境の檮原という町で、木造の芝居小屋が壊されかけている。是非、見に来て欲しい。で、保存運動に関わって欲しい」と連絡をもらいます。

 隈さんは、檮原町に出向きます。羽田から高知空港まで、飛行機に乗れば50分で到着します。そこから、公共交通を使えば、移動時間は、おそらく7、8時間は、たっぷりかかると思います。が、さすがに出迎えの車が空港まで来ています。出迎えの車に乗って、4時間かけて、ようやく檮原に辿り着きます。四国山脈の尾根近くの町です。「最後のトンネルを出ると、まるで雲の上に出たような爽やかな気分になった」と、隈さんは述懐しています。日によっては、雲海が眼下に広がったりするような、authenticな山村です。

 まず木造のゆすはら座を見学します。細かい木材を組み合わせた、繊細な構造システムで、屋根を支えています。椅子は設置してなくて、板張りの床の上に座布団を敷いて座ります。無論、飲食も可能で、一味同心的な一体感を味わうこともできる芝居小屋です。檮原町のハレの日の最大、最高のイベントが、ゆすはら座で公演されるドサ回りの芝居なんじゃないかと想像できます。

 その日の夜、隈さんと小谷さんと、中越町長の三人で飲みます。小谷さんは、隈さんのことを「ニューヨークから戻ったばかりの新進気鋭の建築家だ」と持ち上げます。田舎の人間は、やっぱり中央の権威には弱いんです。中央の権威に弱いのに、そこにグローバルなニューヨークとかというきらきらの修飾語までのっかっています。「アイビーリーグのコロンビア大の客員とか、ちょっとやってまして」などと、隈さんは自慢したりはしなかったと思いますが、隈研吾さんが、東大卒の建築家であるということくらいは、事前に調べてあるでしょうし、隈さんがわざわざ檮原町に来て「ゆすはら座のような素晴らしい建築を壊すなんてありえません」とひとこと言えば、町長は、即座に保存すると決断できます。たった一回の飲み会で決着。こういう決着の仕方を、高知の人は好みます。

 隈さんは、東京の偉い先生ですが、まさかその後、オリンピックの新国立競技場の設計をするようなBig Nameの建築家に成り上がるとは、その風貌からして思えませんし、別れ際、町長は「隈さんは、公衆便所なんかも設計するの?」と声をかけます。隈さんは「公衆便所は得意です」と、はったりをかまします。ほのぼのとしていて、笑えますし、ほっこりします。隈さんは、檮原町と付き合い始め、その後30年間に、公衆便所、町営レストラン、町営ホテル、その他の建築を設計します。町長は4代、かわったそうですが、檮原町は、ずっと隈研吾さんをご指名だったわけです。

 東京の工事現場では、建築家は建設会社のエリート社員である現場所長としか喋ることができません。建築家が直接、職人さんと話して、様々なアイデアを交換すると、コストやスケジュールが変わって来たりします。現場所長は、コストとスケジュールを厳守することがミッションです。これができなければ、左遷させられます。より良い建築物を造ることよりも、自分の出世の方が大切、まあこれがサラリーマン社員を支配している簡明な哲学です。

 檮原と東京とは、流れている時間も文化も違います。檮原では、色々な職人と自由に話すことができます。友だちにもなれます。昼間、彼らが作業をする脇で、彼らの手の動かし方を眺めながら、質問をぶつけると「そんなことも知らないのか」と笑われたりもします。いろいろ注文を出すと、「そんなことできるわけないだろう」と一蹴されることもあるし「そんなの簡単だよ。かえって手間がかからねえよ。本当にそれでいいのか」と言ってくれる場合もあります。檮原は、林業の町です。良質の杉がとれ、大工たちの腕は抜群です。東京では絶対に知ることができなかった現場のディティールを、檮原で学んだことによって、隈さんは、超ド級のスケールの大きい建築家への道を、その後、突き進んで行ったという風にも想像できます。

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