自#654「医療行為を受け、薬を飲むとなると、日頃から、それに耐えられだけの体質をこしらえ、体力をつけて置くことが、必要だと私は思っています」

       「たかやん自由ノート654」(菱田春草)

 日曜日の午後、「北越雪譜」を少し読んで、菱田春草の絵を見ました。まだ、週4日、勤めていますから、毎日、こんな風に長閑に過ごせるわけではありませんが、フルタイム勤務の教職をリタイアしてからは、週末の二日は、古典を読んで、絵を見るという生活習慣が、だいたい身につきました。これは、退職後の私の老後のイメージだったので、願いを実現できているわけですが、「晴耕雨読」の晴耕の方の労働は、いっさい手がけてないので、明らかに運動量が減って、そこはちょっと不健康だなと、自覚しています。畑を借りて、農作業を生活のひとコマに組み込むといった、殊勝な気持ちは、まったくもって持ち合わせてないので、コロナ禍が終息したら、一時間半ほどのウォーキングを始めるつもりです。「歩けなくなったら終わり」、これはもう、若い頃から、エンドレスに、諸先輩方から聞かされて来た、リアリティ溢れる忠告です。
 菱田春草も晩年(春草は37歳で逝去していますから、晩年と言っても30代半ばくらいの頃ですが)朝、代々木公園を、散策していました。明治時代の代々木公園です(ちなみに当然ですが、明治神宮はまだ建立されてません)。原宿、渋谷、新宿といった街は、いっさい存在してなくて、そこら中が武蔵野の原野でした。その朝の散策の最高にすぐれた結晶が、「落葉」です。この作品は、どの日本史の資料集にも掲載されている「黒き猫」同様、著名な作品ですから、若い頃から、知っています。
 私が上京して吉祥寺に住んだのは(井の頭公園のすぐ傍のアパートです)吉祥寺がJazzの街だったからということも、ひとつの理由ですが、国木田独歩の「武蔵野」を高校時代に、何回か読み込んでいたので、武蔵野の林のたたずまいに憧れていたってとこもあります。春草が描く「落葉」は、武蔵野の写実的な光景ではありません。春草が描いているのは、宗達や光琳の絵と同じように、ある種、装飾的な風景です。日本の絵は、徹底的なリアルは、追求してません。現代絵画については、西洋絵画も日本のそれも、ほとんど見たことがなくて、まったくもって無知ですが、現代は写真や動画といったリアルのツールが沢山ありますから、絵画でリアルを追求する必要はないし、過去のどの時代よりも、抽象的な世界に、入り込んでいるんだろうと、勝手に推定しています。
「落葉」は六曲一双の屏風絵です。たとえ、レプリカであっても、この絵が目の前にあれば、飲むのはやはり日本酒だなという気がします。日本の古典を読んで、日本のアートに親しんでいると、(心理的に)自分がどんどんウィスキー党から、日本酒党の方に、傾いて行ってしまうのを感じます。親友のHが「日本人は、やっぱり日本酒だから」と、しょっちゅう言ってましたが、Hの言う通りかもと、この頃、身にしみて思います。日本酒を心の底から楽しむ(まあ、過去にそこまで私は日本酒は飲んでませんが)これが、老後かなという気もします。
「落葉」も「黒き猫」も、春草の最晩年の作品です。目を患っていましたから、武蔵野のリアルの景色は、もうほとんど見えてなかったと推定できます。春草は、日本美術院のあった五浦に、家族と一緒に住んでいました。春草も、春草の盟友の横山大観も、若い頃は、絵はまったく売れず、赤貧洗うがごとき生活を送っていました。ある日、日本美術院の世話役の一人の辰沢延二郎が、二人の身の上を心配して、師の岡倉天心に「あのままでは、二人とも乞食になってしまいます。どうなさるおつもりですか」と、問いかけると、岡倉天心は「乞食になっても、いいではないか。本人が自己の主張する芸術に忠実なのだから、乞食になるまで見ていよう。もし二人が、乞食の境遇まで行った時には、あなたは着物を送って遣って下さい。私は、米や味噌でも送ります」と淡々と返事をされたそうです。岡倉天心は、アーティストではありませんが、アーティストたちのプロデューサーとして、腹を括っています。師が腹を括っている以上、弟子たちも泣きごとを言わず、腹を括らざるをえないし、食うや食わずの生活の中から、真のアートを創出しなければいけません。
 春草は、この赤貧の生活の中で、目を患います。私は、栄養学をまったく信じていませんが、栄養学を信じなくてもいい人と、栄養学をある程度、尊重しなければいけない人とがいます。みんながみんな、栄養学を無視してもいいということではありません。人間の個人差は、一般に考えられている以上に、大きなものがあります。
 五浦に日本美術院が移転する前に、春草は、30歳の時、大観と一緒に、インドに出かけています。その後、大観とアメリカ、ヨーロッパにも外遊します。二人とも、まだ30代で、若いので、外遊に耐えられるだけの体力、気力は充分に持ち合わせていると、師の天心は、考えたんだろうと思います。天心自身、ボストンと日本とを、行ったり来たりの生活をしていました。が、30代のまだ壮年期の盛りであっても、インドのような気候風土がまったく違う土地の水にも、食べ物にも身体を慣らすことができない人は、確実にいます。沢木耕太郎さんの「深夜特急」を読んで、バブル前夜の日本の少なからぬ青年たちは、インドを目指しました。私の教え子にも、インドを放浪した若者は結構います。
「報道とかは、まずされませんが、あっちで客死するやつも、それなりにいますから」と、教え子から聞かされたことがあります。海外旅行中の高齢の方が、旅行先で客死することだって、結構、ある筈です。そもそも、あの狭い飛行機の座席に、充分な睡眠も取れない状態で、長時間、縛りつけられているのもストレスですし、外国の水も食べ物も、日本人に合うとは思えません。定年退職後に、年に何回か、海外旅行に行かける知り合いのシニアの方が、コロナ禍前には、沢山いました。「お金があって、羨ましい」とかではなく、「体力とか気力とかが、本当に海外旅行のストレスに耐えられるんだろうか」と、危ぶむ気持ちでいっぱいでした。
 私の従妹のT子も、仕事でしょっちゅう海外に行ってましたし、老後は、オーストラリアのパースで暮らすつもりで、日本とパースとを、定期的に往復していました。子供は、日本の学校に通ったり、パースの学校に通学したりしていました。オーストラリアドルで貯蓄し、住む家もほぼほぼ決めていた様子でしたが、50代で癌で逝去しました。仕事も忙しかったと推定できますが、海外と日本とを、しょっちゅう往復できるだけの体力、体質が備わってなかったんじゃないかと、私は推測しています。
 横山大観は長生きしました。春草は夭折しました。運命というより、無理できない人が、無理をした結果、死を早めてしまったという印象を受けます。五浦では治療ができないので、東京に戻って来て、代々木に住みます。網膜炎で、あと慢性腎臓炎も併発しています。医療も薬も、両刃の剣なんです。よい部分もあれば、悪い部分もあります。体力があり、体質がも強い人は、医療を施されて免疫が下がっても(医療と薬で、免疫力は確実に下がります)耐えられると思いますが、体質の弱い方は、医療行為には耐えられないと想像できます。春草は、ほんの一時期、回復しますが、すぐに病状は悪化し、37歳で逝去しました。「落葉」と「黒き猫」は、その一時期の回復した時に描いた傑作です。

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