自#408「人生に行き詰まったら、勉強しろと教え子には、しょっちゅう言ってます。資格を取るとか、何か得意科目を拵えるとか、そういうことじゃなくて、勉強している内に、未来は自ずと開けて来るんです。温故知新的なことだと思います」

         「たかやん自由ノート408」

 桐光学園という中高一貫校を、著名人が訪問し講演を行い、その記録をまとめた「世界とつながる生き方」という本を読みました。建築家の香山壽夫(こうやまひさお)さんは、「プロフェッショナルとはどういうことか」というタイトルで、お話をされています。プロフェッショナルを略すとプロ。つまりアマチュアではなく、本職の専門家のことです。プロフェッショナルの語源は、professです。prfessは、告白する、宣言する。私は、こういう仕事で自分の人生を捧げますと、神に告白すると言った意味合いです。当然ですが、社会のために、役に立つ仕事です。

 建築には三つの働きがあります。ひとつ目は、人間を雨や風、暑さ寒さ、時には外敵から守る働き。二つ目は、人と人とを繋ぐ働き。たとえ、おひとりさまの草庵であっても、そこに誰かが突然、訪ねて来ることは、想定して造らなければいけません。

 三つ目は、人間を包む何か大きなものと関係付ける働き。都心部の高層ビルは、外界の自然とは、基本、遮断されています。窓の外の雨、嵐をヴァーチャルな映像のひとこまだと見なすことも可能です。が、都心部の高層ビルには、資本主義のエートスが、好むと好まざるとに関わらず、組み込まれています。都心部の高層ビルは、21世紀の肥大化し過ぎた(もう破綻寸前だと私には見えますが)資本主義のスピリッツを表現しています。建築は、やはり時代を映す鑑だという気がします。

 香山先生は、三つ目は(中高生には)わかってもらえないかもしれないと、懸念されています。が、中高生の感性は、大人よりはるかにシャープなので、三つ目の働きを、直観で理解します。沖縄のガマ(一種の建築物だと言えると思います)に生徒を連れて行けば、沖縄戦の亡霊のようなものを生徒は感じ取ります。懐中電灯を全部消して、暗闇体験を経験させれば、悲鳴を上げる女子生徒だって出て来ます。

 私は、源氏物語を毎日、読んでいます。平安時代の住居は、外側にdirectに繋がっています。建築ですから、屋根を支える柱はありますが、壁は存在してません。パルテノン神殿だって、柱が並んでいるだけで、壁はありません。外側にdirectに繋がるのが、建築の本来のお約束です。外側の自然とも直結していますし、魑魅魍魎とも繋がっています。六条御息所の怨霊など、神出鬼没です。

 Oくんという武蔵美の建築科を卒業した教え子がいます。今、建築をやっているかどうかは、判りません。私が最後に見た時は、劇団で役者をやっていました。Oくんは、小平市のK高校の私の担任クラスの生徒でした。高1から高3まで、3年間、ずっと私のクラスでした。高1の秋でしたが、遅刻があまりにも多いので、呼び出して、説諭しようとしました。「朝、いったい何時に家を出ているんだ」と聞きました。(東小金井からのチャリ通でしたが)普通に間に合うよう自宅を出ています。「その時間に家を出て、なぜ、遅刻するんだ?」と、問い詰めると、まあ、しょうがないかという雰囲気で、Oくんは、ぼそぼそ喋り始めました。「来る途中に、小金井公園があって、そこの草っぱらとかベンチで、寝転んでしまうんです。で、青い空とか、流れる雲を見ていると、学校とか、まあいいかぁって気になって、ついつい時間が過ぎてしまうんです」と、Oくんは、説明しました。その頃、私は井の頭に住んでいましたが、たまにチャリで行く時、やはり小金井公園を横切りました。公園の草っぱらに寝っころがるとかって、発想は当時40代の働き盛りだった私には、できませんでした。公園の草っぱらやベンチで、寝っころがって、四季折々の空を眺めることも大切です。学校に遅刻しないで来るということも、やはり大切です。が、そもそも、過去に高校を中退している私には、高校生に説諭とか説教とかをする資格はない筈です。「が、遅刻されたら、オレとしては困る」と、正直に言って、出欠が厳しくなるまで、放置することにしました。どの道、正解はないんです。その後、Oくんの遅刻は、明らかに減りました。どうしても、寝っころがりたい日のみに限定するように、彼なりに方針を立てたんだと想像しています。

 Oくんが武蔵美の建築を出て、何年かした頃、東小金井の地元の喫茶店のリフォームを自分が手がけましたと、知らせて来ました。その喫茶店は、東小金井の街中ではなく(街中というほどの繁華な場所は、東小金井にはありませんが)野川の流れている武蔵野公園にほど近い、武蔵野の自然を感じさせる場所にありました。トトロの物語に登場しても、違和感のないハンドメイドの素朴な喫茶店でした。背景の武蔵野公園に、きれいにとけ込んでいる感じです。Oくんは、小学生の頃、武蔵野公園のすぐ傍にある小金井南小に、通っていたんですが、南小時代に、武蔵野公園で自由奔放に遊んだその雰囲気が、伝わって来るような、喫茶店の雰囲気でした。南小の同窓会は、取り敢えず、一次会はここでやるって感じだろうかと、勝手に想像しました。

 私は長いこと、井の頭公園の傍に住んでいました。井の頭公園は、完膚なきまでに人間の手によって、管理されています。四万十川の山奥で、本物の自然を体験している私の目から見て、何ちゃってな自然です。手を入れすぎたら、自然は、自然を失います。武蔵野公園も、当然、人間の手は入っていますが、割とアバウトで、これだったら、折り合えるってとこもあります。

 Oくんの喫茶店のリフォームは、つまり武蔵野の自然と、南小に通っていた頃の古き良き時代の雰囲気を、ミックスして、プレゼンしたものだろうと判断しました。香山さんが仰るように、建築は外側のsomethingを包摂しています。

 香山さんは、1937年、盧溝橋事件の年に生まれています。いわゆる戦中派です。終戦は、満州で迎えたそうです。終戦を迎えたのは、7、8歳。小2、3くらいの頃です。ソ連軍が入って来て、中国人同士の争いも起こり(共産党と国民党との争いです)大混乱状態です。当然、小学校もなくなってしまっています。国を失い、学校を失った子供たちは、あちこちの先生の家に思い思いに集まり、勉強をしたのだそうです(みんながみんなではありませんが、大混乱時代であっても、きちんと勉強していた子供もいたわけです)。食べるものも充分にはなく、明日どうなるか、生きて日本に帰れるかどうかも、わからないのに、一生懸命、勉強します。担任の緒方先生(もう学校は消滅しているので、担任ではありませんが)は、「しっかり勉強し、正しい強い心を持った人間になれば、世界のどこかで、必ず立派に生きていける」と、繰り返し生徒たちを励ましたそうです。こういう先生がいて、一生懸命勉強した子供たちがいて、戦後のあの大復興を成し遂げたんだと、納得しました。

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