自#982「内閣府の調査では、30代までが若者です。が、私の感触では、結婚してなければ、40代も若者だという気がします」

           「たかやん自由ノート982」

 内閣府は2022年に、「こども・若者の意識と生活に関する調査」を実施した。対象年齢は10~39歳と書いてある。おそらく、10~19歳がこども、20~39歳が若者だと、区分している。19歳をこどもと言ってしまうのは、無理があるかもしれない。が、39歳が若者というのは納得できる。長年、高校の現場にいて、各世代の仲のいい教え子たちと、少しは付き合いもあるが、39歳は間違いなく若者だと感じる。
 少し前、駅から自宅に向かって歩いていたら、自転車に乗っていた若者に「先生」と、声をかけられた。教え子のAくんだった。Aくんの学年は今年、不惑(40歳)。Aくんは私の担任学年。各学校の一番仲がいい学年の卒業生と、自分との年齢差を暗記しているので、基準の学年から類推すれば、教え子の年齢はすぐに割り出せる。ちなみにAくんの学年と私との年齢差は29歳。私は、今年69歳なので、69歳から29歳を引けば、即座に40歳と割り出せる。Aくんは、結婚しているが、子供はいなくて、子育てはしてない。子供を持って、子育てを経験しなければ、40代でも若者かもしれない。
 内閣府は、安心できる場所はどこかと、10~39歳に訊ねていて、88パーセントが、安心できる場所は、家庭だと答えている。88パーセントは、ちょっと多すぎるような気がする。12パーセントは、家庭は安心できる場所じゃないと言ってるわけだが、間違いなく、もっと沢山いる。少なく見積もって30パーセント、多く見積もれば半数の人間にとって、家庭は決して安心できる場所ではないだろうと、これまでの人生の経験値から、想像できる。ちなみに、結婚するまで、私には生まれてからずっと、家庭というものは、存在してなかった。今の時代だって、そういう子供は、きっと沢山いる(むしろ、昔より多いと推定できる)。その子たちが、アンケートを見て、こんなの応えようがないだろうと、匙を投げるsceneが、瞼に浮かぶ。
 ところで、安心できる場所として、学校だと答えた人が、49.9パーセント。卒業した学校を含むと注が書いてあるので、安心できた過去の学校時代も含まれている。49.9パーセントは、約半分。約半分の人が、学校はOKで、半分がNG。まあ、これは妥当な数字だと直観したが、教師のひいき目で、そう感じているだけで、学校をOKだとポジティブに肯定する人は、本当はもっと少ないのかもしれない。
 今、夏休みで、生徒は、9月9、10日に実施される文化祭のために、ちょいちょい準備に来てる。私が見かけるのは、たとえば、高2だと、毎日、多く見積もっても学年全クラスで、10人くらい。高2の生徒は、全部で280人いる。夏休みにわざわざ文化祭の準備に来る生徒は、もちろん、学校は全面的に好きなんだろうと推定できる。280分の10だと、その数は、4パーセント弱に過ぎない。49.9パーセントの数字は、サバ読みすぎかとも思う。
 ところで、安心できるのがインターネット空間だと答えているのは、58.2パーセント。学校よりはるかに多い。学校に行くくらいなら、Eスポーツで、遊んでたいという気持ちは、解らないでもないが、58.2パーセントは、多すぎる気がする。
 学校の職員室にいる先生のほとんどは、パソコンに向かって、仕事をしている。個人面談や生徒指導などは、明らかに、昔に較べると時間的に減少したと感じる(パソコンを使用するデジタルの仕事が明らかに増えている)。電車に乗っても、長いエスカレーターに乗っていても(これは、六本木に行く時、新宿駅で地下鉄に向かう時に見かける光景)、多くの人が、スマホを見ている。昔は、エスカーターの横の壁に、広告が掲示されていたりしたが、最近は見かけなくなった。
 インターネットは、つまり二次元。あらゆるものが、二次元で表現可能だと、レオナルドダヴィンチは言ってたような気がするが、うろ覚え。ダヴィンチではないかもしれない。が、すべてのものが、二次元で表現可能だと言った人は、歴史上、何人かはいる。セザンヌが、そういったとしても、私は絵が好きなだけに、充分、理解できる。
 が、私はイタリアで、ミケランジェロの彫刻を見た。ロンダニーニとバチカンのピエタ。フィレンツェのダヴィデ。ローマのモーセ。あの動かしようのない崇高なミケランジェロの彫刻を見てしまうと、二次元は、表現の可能性のひとつだと、やっぱり思ってしまう。
 ここ10年くらい、高校生が新聞を読んでいるのを見たことがない。ここ10年、生徒が紙の辞書を引いている姿も見てない。ここ10年、バイクに乗ってる生徒も見ない。徹マン(徹夜麻雀)をやって、授業中、寝ている生徒も、ここ10年見てない。ステージの上から、客席に向かって、本気のダイブをやってる無茶な生徒も、ここ10年見てないかもしれない。
 リアルが限りなく薄くなって、ネットのバーチャルで、だいたいことごとく、事足りるようになった。こういう風に社会が変遷してしまったから、安心できるのが、インターネット空間だと、58.2パーセントのこども若者が、支持しているのかもしれない。
 私が高1の時に刊行された集英社の世界美術全集5の「ロダン・ブールデル」に、武者小路実篤さんが「松方幸次郎くんの手柄で、上野に行けば、ロダンの傑作が、沢山見られるようになった」と、エッセーに書いている。私は、倉敷の大原美術館で、「カレーの市民」の鍵を持った市民ジャンデールと「説教をするヨハネ」「歩く人」の三つを見ていた。が、上野に行けば、西洋美術館の入り口近くの庭に、「地獄の門」「カレーの市民」「考える人」「アダム」「イブ」と、著名な傑作が、いくつも置かれていると知って、東京の文化の高さに圧倒された。四国の田舎でずっと暮らしていたら、ロダンを見る機会は、一生、巡って来ない。ブリジストン美術館には、セザンヌの「サントヴィクトワール山」が展示されていて、国立博物館には、雪舟の「秋冬山水図」も伝永徳の「檜図屏風」も、等伯の「松林図屏風」もある。
 大学の授業が、どんなにツマラナクても(大学の授業がツマラナイということは、高校時代、嫌というほど聞かされていた)東京に行く価値はあると確信できていた。が、現在のように、インターネットが自分の居場所だと考えている人たちにしてみると、わざわざ、東京に出向かなくても、世界中の情報は、検索するスキルが高ければ、瞬時にモニターに表示される。
 二次元で、何もかもが完結してしまいそうな今の時代だからこそ、ロダンの言う、三次元の奥行き、内部の力強い衝動が、必要なんだろうと思う。リアルの真実は、ロダンに教えられるまでもなく、三次元の奥にのみあると信じられる。

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